「ノスタルジア」と「情報過多」にどう向き合うか(『石岡良治の視覚文化「超」講義外伝』第6回) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.08.12
  • 石岡良治

「ノスタルジア」と「情報過多」にどう向き合うか(『石岡良治の視覚文化「超」講義外伝』第6回)

本日は批評家・石岡良治さんの連載『視覚文化「超」講義外伝』の第6回をお届けします。石岡さんの同名の著書をテキストに、番外編をお送りしているこの連載。今回は、「情報過多」と言われる現代をどう捉えるか、そして「情報過多」の時代だからこそ生まれる「ノスタルジー」について考えます。


 

「石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 」これまでの連載はこちらのリンクから。

※本連載は、PLANETSチャンネルニコ生「石岡良治の『視覚文化「超」講義』刊行記念講義」(第3回放送日:2014年9月10日)の内容に加筆・修正を加えたものです。

今回、話題として取り上げるのは、私の著書『視覚文化「超」講義』の、「映画」を題材としているパートです。いま様々な分野で起こっている「ノスタルジア」という問題は、「情報過多」という現代特有の状況から生まれている、というテーマで語ります。本書ではLecture1_3.で「情報過多の時代における文化論」を取り上げていて、Lecture.2で「ノスタルジア/消費」を取り上げていますので、Lecture1_3からLecture.2にまたぐ話を関連付けて扱います。

まずは、前回の講義でもお見せしたこの画像をご覧ください。

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参考URL: http://2ch.ja.utf8art.com/arc/train_1.html

これはあくまで私の個人的な考えなのですが、2ch自体がノスタルジアの段階に入りつつあると感じています。つまり2chという文化自体が衰退していっているということです。この画像が象徴するものが何かについては、後ほど詳しく語りたいと思います。

今回、話したいのは『視覚文化「超」講義』の枠組みに関することです。前回は文化論および教養論について話しました。この連載では、本書で取り上げない文献も登場します。つまり本書を踏まえつつも、新しい話をしたり、残された課題にもう一歩踏み込んでいくのがこの『超講義外伝』シリーズです。

とはいえ、今回は本書のまとめのような話が多くなるとは思います。しかし、それでもいくつかは新しい話をしていきます。具体的には、ニコ生放送「月刊 石岡良治の最強★自宅警備塾 vol.10 テーマ:2014年夏映画特集!」でも取り上げた『STAND BY ME ドラえもん』の話もしようと思います。『視覚文化「超」講義』の枠組みの設定をしたときに、普遍性があり、重要な問題を扱うようにしたいと思っていました。『STAND BY ME ドラえもん』の公開により、枠組みの重要性を確かめるときが早速きましたので、この話題は後ほど取り上げます。

■「情報過多」について

まず、「情報過多」の問題について整頓したいと思います。
前回(カルチャーを「自意識」から解き放つ(石岡良治の視覚文化「超」講義外伝 第5回))は文化論と教養論について話しました。「現代において文化論は何をすべきか」という問いは、本書における大きなテーマのひとつです。
本書は教養論の本として出しているつもりはないのですが、前回の連載で指摘したような「教養主義」の問題点を意識しつつ、先人の本を読むこと自体は大事なことでもあるので、そういった取捨選択について丁寧に扱いました。現代とは、情報過多の時代に何を捨てるのかが問われる時代だからです。

本書をお持ちの方は45ページの「Amzon.comの物流センター」の写真をご覧ください。
ちなみに本書の製作事情をいうと、この写真の版権元であるGetty Imagesに支払うお金が少しかかりました。
この画像はGoogle画像検索で「倉庫」と検索すれば出てきますので、ご自身で検索してみてください。(ネタ元「クリスマス商戦に向けてのAmazon.comの倉庫」参考URL: http://www.dailymail.co.uk/sciencetech/article-2065996/Black-Friday-Cyber-Monday-Amazon-warehouse-gears-Christmas-rush.html

現代の「情報過多」を指し示す典型的な画像ではないかと思います。本書には版権管理されている画像がいくつかあります。一番有名な画像を挙げると263ページの『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-』のイオナさんですね。

具体的な数字は本講義では出しませんが、ゼロ年代を通じて、人類の総記憶データ量が、だいたい100倍になりました。具体的に言えば、2000年までの人類が記録してきた、石版に書かれた楔形文字、写経、行政文章のような文献の総量が、わずか10年で100倍になったということです。そして、今もなお、データ量は増加中です。

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しかし、人類の総記憶データ量が100倍になりましたが、人類は100倍賢くなったと言えるかどうか、むしろ総記憶データ量が100分の1に薄まることで人類は劣化したのではないのかという議論が即座に広まります。このような「懸念」は、教養主義的な立場から、しばしば投げかけられる「時候の挨拶」のようなものです。

具体例を挙げると、本書Lecture.5でも話していることなのですが、「初期のニコニコ動画はいいモノであった」と昔を懐かしみ、今は最高の状態ではないとする――すなわち「懐古厨」問題です。

しかし、ここでいう劣化は本当の劣化でしょうか。

この問題に対する答えは、その都度、具体的に考えていくしかありません。問いの立て方を変える必要があるのではないかということです。簡単に言えば、現代では情報が「残ること」の意味が変容しているのではないかという話ですね。

昔と比べて現在では、「アーカイブの喪失」の恐れが極端に減少しています。例えば日本のテレビ番組は、1980年代のものですら残っていないものが多かったりします。
昔はアーカイブが残っていればすごいことであるとされていました。でも今は、録画を忘れていても、友人が録画したモノを所持していたり、または公式チャンネルで放送されることもあります。再放送やニコニコ生放送での一挙放送が、それにあたります。

このようにして現在では、だいたいのデータが残ってしまいます。ということは、劣化したとか薄まったのではなくて、情報が残るということに対する意味合いがここ10年間ぐらいでガラッと変わってしまったということです。このことを前提にして、記憶と記録の関係を再編成していく必要があります。

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