☆号外特集②☆【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(後編) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

Serial

  • 2018.12.27
  • 張イクマン,福嶋亮大

☆号外特集②☆【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(後編)

新著『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の刊行を記念し、文芸批評家・福嶋亮大さんの登場記事を3夜連続で特別再配信します!
第2夜は、張イクマンさんとの共著『辺境の思想 日本と香港から考える』をめぐる対談の後編。

新著で語られた20世紀映像史の原風景とも重なる〈東洋のアジール〉としての戦前の東京に言及しながら、近年顕著になりつつある昭和的な共同幻想への回帰願望、さらに、都市の「散歩」が持つ思想的な可能性について語り合います。
(構成:佐藤賢二)
※前編はこちら

書誌情報
a3c4472c3059ebe77c0af43b721e68bd992c4a41
『辺境の思想 日本と香港から考える』Amazon
頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記録。

0c5594f70c45b2a04a99a1a07a9394446f2ff4bf

福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』
PLANETS公式オンラインストアなら、脚本家・上原正三さんとの対談冊子つき!(数量限定・なくなり次第終了)

【特別対談】上原正三×福嶋亮大
『ウルトラマンの原風景をめぐって――沖縄・怪獣・戦後メディア』

☆お求めはこちらから☆


「世界の誰もが知るアイコン」が示せない東京

宇野 ラディカルなナショナリズムを唱え香港の独立を目指す本土派は問題外としても、張さんの支持してる自決派も、北京政府に対して香港という疑似国家をアイデンティティとした政治的要求という運動の形をとっている限り、結局その問題は出てくると思います。アメリカでも、シリコンバレーやニューヨークのビジネスマンはまさに都市民で、自分たちはグローバルな世界経済のプレイヤーだから、アメリカという国に所属してるという意識も相対的に希薄なわけですね。これに対してトランプを支持したラストベルトの自動車工たちは、ナショナリスティックな保護貿易を発動してくれないと自分たちの生活が脅かされると思い込んでいる。この階層による認識の差は大きいです。香港でも、どれだけ自決派がリベラルに振る舞おうと彼らの運動の方法が対国家、行政府に対しての政治的なアプローチである限り、アメリカで起きているのと同じような問題が発生していまうと僕は思うわけです。

福嶋 トランプ自身はもともと不動産王で、80年代にはマンハッタンでテレヴィジョン・シティという開発プランを展開したりもしている。建築家のレム・コールハースが1970年代に『錯乱のニューヨーク』という都市論の奇書を書いて、古典的なアーバニズムを解体するマンハッタンの資本主義的な都市原理を称揚したけれども、トランプはその「マンハッタニズム」の鬼子のようなところがある。その意味でトランプは都市の申し子で、政治の現場にもテレビ的な本音主義と悪徳ディベロッパー的な恫喝を持ち込んだ。さらに、ピーター・ティールみたいな同性愛者のリバタリアンのシリコンバレー起業家がトランプを支持する、なんていうこともあるわけですからね。しかし、皮肉なことに、大統領選挙では都市部で支持されたヒラリーが敗北し、トランプが地方の怨念を引き受けるようにして勝利した。だから、リチャード・フロリダも新著で言うように、トランプの勝利とは都市の敗北でもある。
今は都市に対して逆風が吹いている状況だと思うんです。香港は香港で、都市的な性格が中国化によって脅かされている。だからといって、もう一度古いタイプの国民という統合装置に戻ろうとしてもうまくいかないんじゃないか。そこで、都市的な性格を評価するような形でグローバル時代の主体を構築していく必要があると思います。さっき言った「都市的アジア主義」はその一つのプランです。

宇野 ただ、都市的な価値観というのは基本的に少数派で、民主主義では負ける運命にあるので、他のアプローチを取ったほうが良いのではないかと僕は思うわけです。ひいてはそこに、雨傘運動の敗北の遠因もあったんじゃないでしょうか。

 先ほど福嶋さんが言ったように、トランプ支持者のようなナショナリズムの正体はアンダークラスで、そういった階層対立は、香港の自決派と本土派の間にもあるわけです。香港という都市が中国化されつつグローバル化されている中、私のように家が買えないような、都会っ子になりきれない敗北者たちによるナショナリスティックな反発が本土派を支えている。周庭さんたち自決派は、団塊世代に向けて都市の中流層っぽい演出をしてるんですね。自分が良い大学出てるとか、海外の大学で講演してるといったアピールをして、天安門事件記念集会でも中流階級の親子たちに支持を集めています。本土派はアンダークラスでナショナリズム的、自決派は中流階級で都市的という演出の傾向があります。

福嶋 ナショナリズムは階層的分割を乗り越えるための装置ですね。張さんはイギリスの歴史的体験を重視しているけれども、要は貴族が権力を握っていた時代に抗して、そのような階層を想像的に打ち消す形で「われわれ皆同じ国民」というナショナリズムが出てきたというわけですね。香港でも今、似たようなことが起きている。これから先、豊かになれそうもない人たちがナショナリズムに自らの尊厳を求めていく。

 確かに、この本でも述べている通り、ナショナリズムの起源はイギリスの平等主義ですね。出自の階層を越えられる機会的平等がもたらす尊厳の高揚こそが、ナショナリズムのエネルギー源です。この点、香港は政府、国家やネーションに依存しない、世界に開かれた商業都市だから、階層上昇の欲望がもっぱら都会的な個人主義で解消されるんです。香港では、日本と違って、集合的・民族的なナショナリズムを使って階層を乗り越える発想はあまり強くないと思います。また、成功した人間は自分で努力してお金を持っているといった、アメリカのような個人的・公民的なナショナリズムもないのです。香港では、個人の階級上昇も尊厳も、いかに世界経済の機運とチャンスをうまく掴めるかにかかっていて、それは時に生死に関わる問題です。香港ではナショナリズムはお金を稼ぐ道具に過ぎないんですよ。香港には民族的アイデンティティも中華愛国主義もありましたが、個人の生存に比べると二次的なものです。中国革命があって、香港では大陸本土のナショナリズムを煽りながら武器を転売するとか、中国本土が改革開放・経済成長していくと予測して国有企業の株や不動産をたくさん買うとか、火事場泥棒みたいに、世界が混乱・変革してるから香港の都市は成長していくわけです。普遍道徳を講じながら、株で稼ぐ。表は君子、裏は商人の模範。そういうものが階級を乗り越える手段ですね。

福嶋 しかし、ナショナリズムは尊厳を獲得する装置だというのが、この本での張さんの主張だと思うんですよ。僕も、近代のナショナリズムは集団的な尊厳を生み出す装置だったと思うんです。政治学者のベネディクト・アンダーソンも、宗教の黄昏の時代にナショナリズムが出てきたと述べています。要するに、人間の運命論的な不条理を引き受けることができるのが、ナショナリズムという疑似宗教だという主張です。ただ、今の日本のポストモダン化し表層化したナショナリズムはもはやそういうものではないですね。人間の運命を引き受けるほどの宗教的な力はない。だからこそ、たとえば西部邁のようなオーソドックスな保守主義者・伝統主義者は、今のナショナリズムの風潮には乗れず、一人の個人として自殺するしかないわけです。

 問題は尊厳をどこに求めるかですね。それも空想的な根拠じゃなくて、自分はお金持ちであるとか、ロシアのように自国の軍隊は強いというのもひとつの尊厳の持ち方です。私から見ると、日本は世界各国からマナーがいいとか料理が美味しいと思われているし、日本のアニメはすごいと自慢するナショナリストもありうるけど(笑)、そういう自己認識が多数の人たちにはあまりないんじゃないですか? 観光客が日本に殺到してるのは、もちろん為替などの経済原因もあるけれど、そういうサブカル的な蓄積があることも確かです。問題は、自国の文化の特徴や長所をいかに世界からの目線で客観的に見ることができるか、これが大事です。逆に、さっき福嶋さんが仰ったように、今のグローバリズムや都市主義はすごく平面的で、文化的な特徴をなくすかもしれません。国家の特徴と長所をいかに都市の次元で表現するのかが、これからの日本の挑戦ではないかと思います。

福嶋 その通りだと思います。その点で言うと、東京はレム・コールハースも言うように「特徴がないのが特徴」という都市ですね。たとえば、シンガポールならマリーナベイサンズ、パリならエッフェル塔という具合に、都市を特徴づけるアイコンというものがあるでしょう。しかし、東京にはない。東京ではピクセル画で描いたような高層ビルがどんどん建っていくだけです(笑)。良くも悪くも、東京は都市を特徴づける努力をあまりしていない。張さんが言うように、食べ物が美味しいとか、コミケがあるとか言えるけど、少なくともシンボリックなアイコンはない。
20世紀後半の日本の思想では郊外化が問題で、それはアメリカナイゼーションと結びついていた。しかし、20世紀の郊外化は文明史的には寄り道であり、21世紀はもう一度郊外から都市への回帰が起こっているわけですね。だけど、日本の場合は、都市を特徴づける知恵もあまり蓄積されていない。そもそも、香港には、唐代の敦煌や清代の漢口のように「香港の先祖」と言えるハイブリッドな交通都市があるわけだけど、東京は過去に先祖のいない「歴史の孤児」のような都市です。だからこそ、東京を輪郭づけるためにも、他の都市と比較しないといけないと思うんですね。

「縁切り」と「縁結び」を同時に行うアジール

 私はもともと日本のナショナリズムが専門で、大学で都市社会学を教えてるけど本来は専門ではありません。しかし、この本を書いている一年間、ずっと都市というものの定義を考えてきたわけです。ナショナリズムは尊厳を求めていて、たとえば自分の所の食べ物は美味しいとか、自分の文体はすごいとか、それに尊厳の根拠を持てばいい。同じ辺境の思想でも、都市的な発想のエッセンス、一番中心の発想はどこにあるのかというと、新鮮さとか好奇心とか多様性とか、そういう常に新しいものを求める発想ですね。
この本の最後のほうで書いてますが、日本から見ると香港は文化史に関心がない、自分のアイデンティティは強いけれど、自分の文化を大事にするとか、自分の地元の食べ物である香港料理とかについて語らない。香港人はとにかく新しいものを求めて、どんどん新しいことを取り入れている。都市の発想では、社会全体が村ごと固まって、「これが伝統的な香港らしさだ、こういうことをしろ」ということはまずないんですね。

福嶋 そうでしょうね。僕は、都市というものは「好奇心」に加えて、快楽やエロスと結びつくと思います。つまり、生の次元ですね。逆に、ネイションは死の次元、つまりタナトスと切り離せません。ナショナリズムには、靖国神社や三島由紀夫の切腹に象徴されるようなタナトスの享楽がある。それに対して、我々としては都市の快楽を改めて考えようという文脈になっていたと思います。

 そうですね。ネイションは死に関係がある、しかし都市は生に関心がある。

福嶋 もう一点、張さんが述べていたことで重要だと思ったのは、アジールの問題です。歴史学者の網野善彦は『無縁・公界・楽』などで日本中世の「縁切寺」のようなアジール(公権力から独立した避難場所となる空間)について論じたわけですが、張さんはそのモデルが20世紀の香港に当てはまると言っています。僕は、その読み替えは非常に大事だと思うんです。都市は一方で快楽的な場所なのだけれども、同時に他の土地にはいられないような、亡命者や避難者を受け入れることができる聖域のような場所だというのが張さんの考え方でしょう。
僕は、それは都市の捉え方としては非常にポジティブな価値を持っていると思うんです。日本国内の視点だけで網野善彦を読んでいても、そういう発想は出てこないし、ただの論壇の世間話にしかならない。しかし、香港という具体的な場所とリンクされて、新しい環境に移植されれば、日本の思想ももう一度活性化する可能性もあると思うんですね。そういう意味で、僕は張さんのアジール論は非常にいいと思いました。

 アジールとなる場所は身分も国籍も問いませんね。

福嶋 かつては、東京もアジールとして機能していたわけです。とくに20世紀前半の日本では、白人列強に対するアジアの連帯を唱えるアジア主義があった。それで、中国人の革命家の孫文やインドの独立運動の闘士だったラース・ビハーリー・ボース(中村屋のボース)のように、厄介な政治的背景を抱えた人々を亡命者として受け入れてきたわけです。もちろん、受け入れる側にも政治的思惑はあったわけですが、理由はどうあれ、日本は戦前のほうが政治的な開放性があったとも言えるわけですね。
それに比べると、今の日本は難民受け入れにも非常に消極的で、過去を忘れてしまっている。あるいは、20世紀前半を過去の研究対象に留めている。要するに、アジア主義の研究者はいますが、アジア主義的に振る舞っている人は少ないということです。

 都市の「商」(自由意志による貿易)と、政治の「盗」(暴力を盾にした利益の詐取・保護)のバランスは、都市を考える上で重要なテーゼです。今の欧米知識人の言論を見ると、貧乏人や難民はかわいそうだから都市に受け入れるべきだと言いながら、政治は暴力を行使すべきではないとして、難民を生み出す「外悪」を放置する。また、都市は不平等を生産するからけしからんといって、都市の生命力をいかに有効に導くべきかを考えようとしない。網野善彦も指摘していましたが、アジールの理想は残酷な個人生存ゲームから生み出されるものでもある。そういう都市的な理想と現実をどう捉えるのか、そこから考えなくてはなりません。たとえば、江戸時代は與那覇潤さんが語っているように村社会で、閉鎖的な習慣とかに捕らえられている一方、田中優子さんが述べているように、江戸時代にこそ都市的なネットワークと活発な文化の創造が発生している面もあった。同じ理論で、日本の中世史はアンダークラスに冷たい悲惨な時代でもある一方、網野善彦が述べているように中世は開かれたアジールが機能していた時代でもあるというのも、捉え方は同じ構造ですね。現代では、グローバリゼーションが開かれて、ナショナリズムは閉鎖的という捉え方も同じロジックが働いているわけですよ。

福嶋 まぁ、いつの時代にも両義的な面がありますからね。

 そういう網野善彦的な言い方をすれば、香港のような都市では「縁切り」と「縁結び」の力が同時に働いているわけです。たとえば、今の香港は中国と縁切りしたい、一方で同時に世界の他の同じくリベラルな自由を求める民衆と縁結びをしたい、そういうふうに力のバランスが変わっている。この本の狙いは、日本と香港という同じく経済的・文化的に成功した二つの辺境があって、香港から見ると、日本と縁結びしたいけれど、今の日本はちょっと閉鎖的に見えるわけです。だから、同じ成功した辺境同士でどう対話するかを往復書簡の形で論じている。

福嶋 そうですね。宇野さんもさっき触れてくれましたが、僕は現代のグローバル世界を父と息子の関係のモデルではなくて、並列な兄弟関係のモデルから考えようとしています。近代というのはエディプス・コンプレックスのモデルで語りやすい時代ですね。ヨーロッパのように強い力を持つ父親的な存在がいて、それを乗り越えるべく戦うという図式です。それに対して、今のポストモダン化した状況は、お互い似かよった者同士が仲良くなったり、競争する時代だと思うんですね。

 兄弟のような関係の者同士ということですね。

福嶋 そうです。そもそも、思想家たちはエディプス・コンプレックスのモデルをあまりに特権化しすぎてきたという気がします。ふつうの人間関係にしても、争いはたいてい上下十歳くらいのあいだで、つまり兄弟のような者のあいだで起こるでしょう。親子ほど年が離れていると、たいてい前提が違いすぎて闘いにすらならないんです。
ルネ・ジラール的に言えば、兄弟喧嘩はカイン・コンプレックスのモデルで語れるわけですね。『旧約聖書』に出てくる、カインとアベルの兄弟の争いのイメージです。僕は『辺境の思想』では、ポストモダンはカイン・コンプレックスの時代ではないかと書いておきました。それは東アジアの日本と韓国と北朝鮮の関係を見たらよくわかる。対立や葛藤の形も、時代に応じて変わってくるわけです。

宇野 ポストモダン状況では、父権的・中心的な力は働きにくくなりますから。

昭和の共同幻想にリセットしたい日本人

福嶋 張さんの話に戻ると「縁切り」と「縁結び」を同時にやるのが大事なんですね。僕は日本語を使うこと自体が、じつは国際的な「縁切り」になると思うんですよ(笑)。つまり、日本国内の一億人にしか届かない。その閉鎖性は重要だと思うのです。つまり、張さんが『辺境の思想』で政治的に過激なことを言っても、日本語の環境に守られていれば、中国政府からの弾圧はたぶん受けないでしょう。逆に、張さんがこの本で書いたような主張を中国語で発表したら、政治的にまずいんじゃないですか。

 香港で発言するのはもうすでにマズかったですから(笑)

福嶋 そういう意味では、僕は日本語の環境そのものがアジールになり得ると思うんです。他の英語圏とか中国語圏では言いづらいことも、日本語の環境で言えるようになればいい。今回の本はそのためのトライアルなんですね。だから、政治的に微妙な立場にいる張さんにこうやって日本語で書いてもらったことは、日本語の未来にとっても非常にいいことだと思います。日本語の活用の仕方を新しく作るべきです。

 私たちの書いている本が想定している日本の読者が誰かというと、団塊世代のような安定した組織や企業に属している人より、若くて不安定なまともな職に就けない人に一番読んで欲しいです。不安定な人々の勧請は、ひょっとすると世の中への恨みに切り替わるわけです。それで、宇野さんが言う母性のディストピア的な、大きな母性的存在による承認感を求めるという事態をできるだけ避けたい。そのため、自分が不安定だから何をすればいいかを示したい。たとえば香港の本土派でも、日本の不安定な若者でも、どこに自分の尊厳を求めて、どこに外へ開かれた好奇心を向けるかという、生き残るための本でもあるんです。実際、去年1年くらいかけてこの本を書いてみて、私は当時まだ安定した職を持っていたけど、今は不安定な状態になっていて、過去の自分が書いたものを読んで、「過去1年の張イクマンさんはすごかった」と思ってるんです(苦笑)。過去の自分が考えてきたことや仕事の積み重ねが、今の自分を慰めてくれた書物だと私は思ってます。

福嶋 逆に、日本は良くも悪くも現状復帰能力が強いんですよね。2011年に東日本大震災があったけれど、結局今メディアで話題になっているのは、週刊誌化した政治と、先ほど言った昭和的なオポチュニズムですね。震災が起こって日本は人格が変わったかと思いきや、だいたい2015年ごろに『週刊文春』が芸能人の不倫などを大きく扱い始めたあたりから、もう一度もとの日本に戻ってしまった。どうでもいいことを針小棒大に言いたてる日本的風土の再来です。

 リセットする力が働いたわけですね。

福嶋 日本は勝手にリセットする力が非常に強い。しかも、タチの悪いことに、今の日本の言論界はかなりプロパガンダ的になっていると思います。たとえば、六本木ヒルズの森美術館では4月から《建築の日本》展をやっているけれど、2020年のオリンピックを前にして「自然と調和した日本の木造建築はいかに素晴らしく、いかに世界に受け入れられているか」ということを、これでもかと美辞麗句で言い立てている。日本の木造建築には神が宿るとか、右翼のプロパガンダと見分けがつかない(笑)。結局それは、オリンピック前の祭りに乗りたいという汚い欲望の反映にすぎないでしょう。まさに「きれいは汚い」ですね。
以前の日本であれば、国策的なプロパガンダを批判する知識人が一応いたけれど、今は美しくて綺麗で何が悪いという感じですね。耳ざわりの良いリニアなメッセージに流されやすくなっている。特に、SNSの普及は、広告的・宣伝的な言語使用への抵抗感を失わせてしまったところがある。逆に『辺境の思想』は一種の迷宮的な本で、まったくスムーズに話は進んでいかない。ある意味ではきわめて反時代的な書き方です。しかし、答えの出ないラビリンスのほうが、今の世界の実相を反映しているとも思うわけです。

 私はこの3〜4年間、日本の文化や表現活動が香港より圧倒的につまらなく感じてます。私が宇野さんと福嶋さんに出会った2008〜2010年ごろは、日本が輝いて見えていて、香港が圧倒的につまらなく感じてました。しかし、2014年の雨傘運動の前後から急激に、思想や評論界隈、あるいは作家やアニメでも何でも、日本のほうがつまらなくなっている感じがしてます。香港にはちゃんとした思想も文芸もないのに、そっちのほうが面白く感じ、艶やかに見える。日本では2011年の震災のあと、一時的な変化を感じたけれど、私は、最近は日本のアニメよりNetflixの欧米のドラマのほうが面白く感じるわけですよ。

福嶋 それはそうでしょう。作品づくりの方法論も、内容の多様性も、製作体制も配信方式も日本より進んでいます。

 欧米のドラマについてもちょっと書いたけど、西洋人でとくに頭のいい作家さんやドラマの脚本家さんは、ある意味で西洋文明は衰退化している中、一生懸命それを打破するための創造の思想を動員している。でも、日本のとくに言論・評論・サブカル界隈では昔に逆戻りしてる。今の状況をリセットして、震災以前の『君の名は。』的な世界に逆戻りできればそれが良いという感覚で、それは急激な変化にさられている香港人から見ると、圧倒的につまらなく感じるんですね。

福嶋 その通りです。『君の名は。』は昔ながらの地方の風景、美化された地縁や血縁をベースにした共同幻想の世界ですよね。ああいう作品がヒットしたのは、結局日本人がいかに「古き良き日本」の幻想を必要としているかということを、よく示していると思います。しかし、日本人にとって本当に必要なものは、共同幻想ではなくて現実ですからね。そこは強調しないといけない。

 私より才能が10倍くらいある香港の25歳の若手作家がいて、彼は「屍の愛着心」という言葉で、古い考え方にとらわれた香港の団塊の世代を批判してますね。私は同じようなことが日本にもあるんじゃないかと思います。もうすでに死んでいる死体が、キョンシーみたいに復活してピョンピョンと飛び回ることを期待している状態ですよ。

福嶋 まぁ、昭和のゾンビは強いですからね。僕も特撮論とか書いているから、本当は他人の批判はできませんが(笑)。

「散歩」の効用ーースポーツジムを捨てよ町に出よ

宇野 僕が個人的におもしろいと思ったのは、終盤で少しだけ「ジムより散歩」という話が出てきますね。ここでのスポーツジムで「孤独に運動器具に縛られてる人たち」は、言ってしまえば「意識高い系」ですよね。シリコンバレーのクリエイティブクラスというか、彼らは自意識的には世界市民的で、都市民のメンタリティを代表していると思っているんだろうけど彼らのアプローチでは、ここで語ってきた「都市」のポテンシャルを発揮できないんじゃないか? ということです。要するに、西海岸的な「意識高い系」のアプローチはどこまで言ってもナルシスティックな自己啓発のロジックに絡め取られてしまうので他者とも世界とも接続しない、ということでしょう? だから、無目的に街を歩く「散歩」的なアプローチがそれと対比されているのだと思いますが、どうでしょうか?

 ジムと散歩の話は、政治運動の形態にも言えますね。雨傘運動では、みんな安定した住居がないから、みんなテントを張って座り込みをしていたけど、私は雨傘運動の最大の特徴は、「散歩する力」だと思います。スポーツジムで運動するみたいに形の定まったデモ信仰でもなく、ただみんな観光客みたいに散歩をして、都市をエンジョイする力です。散歩をするのは、都市からのエネルギーを吸収するためでしょう。たとえば、東京で宇野さんがジョギングしている姿を見て、やはり都会っ子だなと思うわけですよ。
一見、ジムに通う方が都市っぽく、中流階級っぽく見える。私も1〜2年くらい、ジムに通って日本のドラマや西洋ドラマを観ていたけど、それでは自分が変わらない。ジム通いは1年半くらいやっていたら、つまらなくなるんです。香港はあまり散歩に向いてないんだけど、私は旺角(モンコック)の繁華街とかを毎晩歩いていて、それにはやはり新鮮感があります。旺角は、東京の秋葉原と浅草と新宿歌舞伎町が1つになったような、人も商品も豊富で猥雑な場所ですね。なぜ散歩が都市的かというと、やはりさまざまな新しいものが目に入る。あるいは、ヨーロッパの都市みたいに、カフェに座って単なる景色や町中の人々を眺めていること自体が、最大の快楽だと私は思うんですね。

福嶋 僕がジムの話で何を言いたかったかというと、今の日本人はみずから制度化されたがっているということです。学生を見ていても思うけど、基準になるような制度やルールを欲しがっているように見える。思想的な言い方をすると「自発的隷従」です。それは、みずからジムに隷属していくことに近いわけですよね。ジムの機械はサディスティックで、人をひたすら運動させて、しかもそれを数値で逐一記録していく。アメリカの批評家のマーク・グライフが書いているけれども、カフカが『流刑地にて』で書いた拷問機械のようなマシンに、ジムの人間たちは自発的に隷属するわけです。大学の書類地獄も似たようなものですが(笑)。
僕は、それとは違うものとして、都市の散歩というモデルを出したわけです。そもそも、往復書簡自体も、言ってみれば知的な散歩みたいなものですね。途中で寄り道してもいいし、その都度目に入った風景を話題にしても構わない。その結果として記述は分裂的になっていくけれど、その分裂的なところも含めて、都市的な魂の再現にはなっているわけですね。

 多分それは心と体の健康の問題にも関連しますね。この本でも書きましたが、互いに体の具合、目とか耳とか胃とかに異常が出て、最悪の場合は、同世代の與那覇潤さんみたいに、鬱になって2年間頭の働かない状態に至るわけですよ。香港と同じく日本も時代が激変して、知的関心を持っている人々にも、ストレスや環境の変化で体やメンタルに異常が発生している感じがあります。それも対応すべき問題になるわけですよ。たとえば、香港では胃が痛くなると都市の料理や食文化を楽しめないし、会食などの交流も難しい、一番苦しいのはそこです。私は一時的に難聴になって、今は治っていますが、目や耳がおかしくなると都市的な感覚が狂ってしまいました。
そういう、体と心のバランスをどこでとるのかも大事です。私たち30〜40代だけではなく、20代の香港の学生さんの一番深刻な問題は鬱ですね、メンタルだけでなく躁鬱から発生する身体の問題もあります。私の授業を取っている学生の2〜5%パーセントが鬱になってます。この本を書いていて、辺境の思想という聞こえは良いけど、辺境の時代に突入して、それに対応する体と心のケアの問題に途中で気づいたんですね。

福嶋 張さんが好きなリア・グリーンフェルドは、近代におけるナショナリズムの世界的流行を狂気の問題と結びつけたわけですね。しかし、今グローバル化しているのは、狂気というよりむしろ鬱だと思います。

歴史が止まった鬱の時代を乗り越えるには

 この2〜3年、ツイッターとかマスコミにはいろんな恨みの声が漂ってる。その恨みの発生源は何かというと、ナショナリズムやグローバリズムに不適応な人たちが自己治療みたいに発言して、あるいは適当に人を巻き込んで戦ってる。それはある意味では、一種の心の治療法なんですが、カルト的な発想とかヒステリー的な行動とか、間違った心の治療法があちこちで湧いてる。宇野さんは、そうした恨みを退治しないといけない状態でしょう。大学の中でもそういう心の問題があちこちにある、大学に入ったら、ある意味で先生がケアやフォローをするけど、会社とか学校に入らず心の問題を抱えたまま散乱している人たちが多いと薄々感じている。この1〜2年間、それがはっきりした形で表れているというのが、この本の隠しメッセージですね。そういう心の異常について、団塊の世代が使っている昔の言葉はもはや通用しない。新しい言葉と方法で、そういう異なる恨みとか、変な言動とかを退治しないといけないんです。

福嶋 狂気はドラマティックなものです。だから、国民へのナショナリスティックな鼓舞にも結びつく。でも、鬱にはそういうドラマがないんですよ。

 鬱は単なる世間との「縁切り」状態になってしまう。

福嶋 精神科医の木村敏が「ポスト・フェストゥム」(後の祭り)という言い方をしたけれども、鬱の時間感覚には曖昧なところがあると思うんですね。僕は與那覇さんが平成という時代と鬱を結びつけたのはよくわかる。鬱の曖昧さと平成の曖昧さは、確かによく似ていると思うんです。つまり、時間の分節化がうまくいっていないわけです。
かつて冷戦体制が崩壊したとき、フランシス・フクヤマが「歴史の終わり」という概念を唱えました。もはや世界に大きな歴史的変動は起きないという考え方ですね。実際には冷戦が終わっても地域紛争とテロ戦争の時代に突入したわけですが、僕は、今の日本国内ではフクヤマの「歴史の終わり」が実現されていると思うんです。日本では歴史が終わっていて、震災を経ているにもかかわらず、もはや2018年も2008年もろくに区別できなくなっている。それぞれがどんな年であったのか、記憶できないわけです。最近のことを覚えられないという意味では、日本人は老人化していると言えるかもしれません。

 理論的なことになっているけど、多分、歴史が終わったという感覚は、心の動きが止まっていることを意味してるんですよ。

福嶋 そうだと思います。今の日本は、歴史が終わり、心が止まった状態にある。そこに日付の入った歴史をもう一度呼び戻そうというのが、この往復書簡でやったことでもあるんですね。

 歴史が終わって心が止まっているとは、何を意味するかというと、自分をとりまく変化、自分が所属する社会の文化の変化を敏感に受け取れないということです。自分がどこにいるのか、どういう時代に生きているのかがわからないんですね。最近はジョナサン・ノーランが脚本を書いている『ウエストワールド』とか、アメリカの作家の映像作品をよく観ていますが、彼の共通関心はやはり時間に対する敏感さを取り戻すことです。ドラマや映画の時間軸がめちゃくちゃで、観客が自分の頭で物語内での歴史を再アレンジしないといけない、そういう努力を観客に要求してる。この時代の歴史が終わった感じ、自分の心が閉ざしてる感じをどうやって再び活発化させるか、自分の頭で時間を認識し直すことが、変化の時代に一番必要じゃないかと私は思います。

福嶋 張さんのように香港のカオスを踏まえつつ、そのなかで敏感さを発揮しようとする人と仕事ができて、僕はとても嬉しく思っています。

宇野 本当にそうですね。日本は平成の30年間ずっと鬱状態にあって、それをポピュリズムという狂気で克服しようとしてきた。しかし、それがうまくいかなかったわけですね。だから、この鬱状態と付き合っていくため、もうちょっとカオスなものを日常の中に溶け込ませる力が必要だと思う。そのため、境界的な立場にある張さんみたいな人が日本で発言してくれるのは、すごい良いことだよね。

 最近の香港の若者で一番流行っている言葉は、「真面目すぎると負ける」というフレーズです。我々の友人の與那覇さんも、立派な人ですが、アカデミズムに真面目すぎて苦しみました。(もちろん、鬱の原因は複合的で曖昧なんですけど)本当に中心的な価値観を強く信じれば信じるほど、病状が厳しくなるのはたぶん一番マズい。

宇野 それは雨傘運動から持ち帰った最大の教訓ですね。今回はお二方ともありがとうございました。

(了)

▼プロフィール
福嶋亮大(ふくしま・りょうた)
1981年京都市生まれ。文芸批評家。京都大学文学部博士後期課程修了。現在は立教大学文学部文芸思想専修准教授。文芸からサブカルチャーまで、東アジアの近世からポストモダンまでを横断する多角的な批評を試みている。著書に『復興文化論』(サントリー学芸賞受賞作)『厄介な遺産』(やまなし文学賞受賞作)『神話が考える』がある。

張イクマン(ちょう・いくまん)
1977年香港生まれ。香港中文大学社会学研究科卒、博士(社会学)。専門は歴史社会学と文化社会学。著書に『鉄道への夢が日本人を作った 資本主義・民主主義・ナショナリズム』(朝日新聞出版)、『香港 中国と向き合う自由都市』(岩波書店/倉田徹との共著)など