魔法の世紀を迎えるための助走 後編(落合陽一『魔法使いの研究室』) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.12.27
  • 落合陽一,魔法使いの研究室

魔法の世紀を迎えるための助走 後編(落合陽一『魔法使いの研究室』)

本日は、12月2日にブックファースト新宿店で行われた特別講演「魔法の世紀を迎えるための助走」の後編をお届けします。近代以降のメディア史とコンピュータ史を踏まえながら、目前に迫っている「魔法の世紀」の訪れと、デジタルネイチャーの可能性について論じます。


 

■ 「映像の世紀」の終わりとコミュニケーション消費

ここまで、ざっとメディアの歴史をおさらいしてきました。18世紀までのメディアの中心は絵画でした。19世紀から20世紀にかけては、マス(大衆)を対象とした「映像」というメディアが現れました。
そして、今の時代を象徴するメディアは「コンピュータ」です。これをあえて別の言葉で言い直すなら、「魔法」と呼べるのではないか、というのが僕の考えです。

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19世紀までのコミュニケーション消費は、全体不便性の中で行われていました。例えば、井戸端会議という言葉が生まれたのは、当時は井戸でしか洗濯や水汲みができなかったからです。井戸が空くのを待つ暇な女性たちが、ペチャペチャ喋ってたわけですね。
それが20世紀に入って洗濯機などの家事をするための機械が家庭に普及したことで、生活の中に自由な時間が生まれ、それを埋め合わせるメディアとして映画やテレビが普及しました。これらのメディアは誰もが同じように紋切り型でコンテンツを消費できるところに特徴がありました。その価格は年代を追うごとに下がり、人々が大量の映像をコンテンツとして消費する時代が訪れたわけです。
しかし、21世紀の僕たちは、コンテンツよりもコミュニケーションを消費するようになっています。それは、19世紀以前の全体不便性の中で行われていたコミュニケーション消費とは根本的に異なっています。
現在の僕たちは自分の時間を確保し、それを個人の判断であらゆることに使えます。そういう状況下では、個人のコンテクストは多様化し、人々は同じコンテンツを消費しなくなっています。
例えば90年代までは、1人のアーティストのCDが100万枚売れていました。しかし現在のAKB48では、数百人のアイドルそれぞれにお金を投じるファンがいて、握手会を開けば個人的な文脈によって100万枚のCDが売れるような時代になっています。
ここ数年、日本でもイベント化するようになったハロウィンも、コミュニケーション消費のひとつです。それぞれ好きなコスプレをして、街頭に集まっている様子をTwitterやFacebookで共有する。ここでSNSは、ハイコンテクスト化を促すインフラとして機能しています。
旧来の映画やテレビといったメディアでは、単一のコンテンツをn人で観ていましたが、現在の文化の特徴は、n人 × n人で世界を捉えるところにあります。これは阿部先生の資料をお借りしたものですが、このように定式化することもできます。

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リアルとバーチャルの境目が無くなってきた現在、画面の中を飛び越えて、この現実の中にいかにして物語を生み出すかが、次なるテーマです。メディアを意識することなくコンテンツに触れられるようになると、虚構が画面を隔てた向こう側ではなく、生活内のありとあらゆるところに溶け出してくる。今あるこの現実と虚構が溶け合い唯一のモノとなることで、やがて、虚構という概念は消失していくことになるでしょう。

■ 魔術的テクノロジーから「魔法の世紀」へ

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「魔術から科学へ」。これはマックス・ウェーバーの言葉です。中世までは、瓶詰めを火で炙ると腐らなくなるのは、「火は穢れを浄化するからだ」と考えられてきました。しかし、パスツールが細菌を発見してからは、「細菌は熱に弱い」という理解が一般化した。科学の発展によって社会から「まじない」が消えてったんですね。
しかし、僕たちの時代は、科学技術の発達によって、再び「まじない」化している。モリス・バーマンは『デカルトからベイトソンへ』という著書で、こういうことを指摘しています。

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工業社会化によって、理由を知らないまま結果だけを享受する機会が増えている。マクドナルドはなぜこんなに安いのか。クレジットカードはなぜ使えるのか。そもそも、自分は社会の中でどんな歯車として動いているのかすら、よく分かっていない人が多い。
そういう社会においては、我々にとってあらゆるものが魔術同然になっている、ということをモリス・バーマンは1970年代の著作で書いています。

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それを、僕たちが無意識的にコンピュータを扱うユビキタス社会において、改めて捉え直したのが「魔法」という概念です。コンピュータの普及によって、行為と出力の関係性は不透明になり、まるで魔法のようになった、いわば「魔法の世紀」に我々は生きているわけです。その世界の背景にある哲学とは何なのか、というテーマに取り組んだのが、この『魔法の世紀』という本です。
『魔法の世紀』というタイトルは、宇野さんとの対話の中で出てきたものですが、「魔法」という言葉は、映像の次なるメディアの比喩として様々な解釈を持ちうる、ある種のクロスポイントにあるキーワードとしても使われています。

■ いかにして物理空間を拡張するのか

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コンピュータ史における最も偉大な人物の1人であるアイバン・サザランドが、今から約50年前に最初のヘッドマウントディスプレイをつくったとき、彼は「究極のディスプレイは物体の存在をコントロールできる」「手錠を表示すれば誰かの行動を制限できるし、銃弾を表示すれば誰かを殺せる」という文章を残しています。

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面白いのは、その最後に「不思議の国のアリスが歩いたような魔法の世界を実現するディスプレイになりうる」、「Mathematical Wonderland」(数理的な魔法の世界)が実現すると言っている。当時はまだ「Computational」(計算機的)という言葉がなかったんですね。
アイバン・サザランドは第二次世界大戦前後の、テレビ文化がやっと生まれつつある時代の人です。当時、映像を出力するタイプのコンピュータはほとんどなかった。これは、今のコンピュータの既成概念が生まれるより前に書かれた文章なのです。そのため、ディスプレイについても先入観なく三次元的に考えていた。サザランドにとってのディスプレイは単なる板ではなく、部屋全体だったり空間だったりしたわけです。

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僕は、これからのコンピュータの可能性を考える上で、このサザランドの発想まで立ち戻ることが重要だと考えています。つまり、この物理空間そのものが情報のサブジェクトになっていく。情報を貯蔵するのがインターネットなら、貯めた情報を元に、物理空間をもう一度生み出すのが新しい時代のテクノロジーです。
『魔法の世紀』ではデータの物象化、つまり情報の「モノ」化をテーマに扱っています。我々はこれまで、二次元のイメージの技術を培ってきたが、これからは三次元の物質的な技術が必要になる。

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僕の物体の浮遊に関する研究もそうです。
今までの物理学者は「なぜ浮くのか」「どうやって動かすのか」を記述してきました。しかし、今の時代はコンピュータによって「どう振り回すのか」あるいは「制御できるのか」が重要になっています。いかにして対象の物理的状態を自由に変えるのか。そこでは、アイバン・サザランドの発想、空間を「モノづくり」ではなく「コトづくり」として考えるアイディアが有効です。
例えば、我々がモノを調べて探したり、手に取ったりするのではなく、対象物が我々の方に勝手にやってくる世界をデザインできるのではないか。認知・選択・ピックアップといった動作から解放され、あらゆるものが人間に寄り添ってくるテクノロジーです。

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これまで僕たちは、仮想現実や拡張現実によって、強固に動かせない現実に対して、ある種の「ごまかし」をしながら干渉してきたけれど、これからは物理空間そのものが情報と一致することで、現実そのものを操れる時代になる。

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そこで重要な技術が「ホログラム」です。ホログラムは空中映像と混同されがちですが、本質的には光や音や電波といった波を三次元に合成するためのテクノロジーです。一箇所に焦点を合わせて波を当てることで映像を出現させる。つまり三次元的に波の集合を記述する技術なので、物体を浮かべたりプラズマで絵を描くといった技術は、すべてホログラムと言えます。
僕の専門はコンピュータと物理の組み合わせによって、このホログラムで記述される場、コンピューテーショナル・フィールドをヒューマンインターフェースとして実装する研究です。

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例えば普通のプロジェクターで、前後2枚のスクリーンに光を当てると、どちらにも同じ映像が投影されます。
しかし、三次元的に光を合成したホログラムだと、奥にはティンカー・ベルが出て、手前にはSIGGRAPHのロゴが出るといった風に、場所によって異なる絵を表示できる。光を一様に浴びせるのではなく、空間ごとに異なる場を生成する。こういった表現が、視覚・聴覚・触覚のいずれも面でも可能になってくるわけです。
こういった技術を使って場を作ることで、人間が中に入り込んで自由に身体を動かせるような空間が実現し、三次元空間的にコンピュータの恩恵を得られる社会になるはずです。
三次元空間に光ったり浮かんだり触れたりするモノを作って、この世界のアップデートを試みる。その可能性を、アートと研究の両面で考えていくのが、2015年の僕のテーマです。

■ 映像と物質の境界を超えるには

そこでキーワードになるのが、映像と物質の境界の越境です。今までの二次元的な映像表現を、三次元において物質的に再現するのは、現時点の技術ではかなり難しい。
例えば、このフェムト秒プラズマは100兆分の3秒で生成されています。これは1秒間に地球を7周半する光が、わずか100マイクロメートルしか進まない、ものすごく短い時間です。この極小の時間にエネルギーを凝縮することで、空気をイオン化しつつ熱を伝えないプラズマを発生させると、人間がやけどせずに直接プラズマに触れるようになる。この超時短パルスレーザーを使って、妖精の映像を物理空間に出現させています。
この技術は現在の価格で4000万円から5000万円くらいするんですけれども、アラン・ケイの頃のGUI(グラフィック・ユーザー・インターフェース)の技術だって、当時4000万円くらいしたわけですよ。確かに今は高価だけれども、本当にイカしてて産業化したい技術だったら、このくらいのコストは大したことないともいえる。
触覚がある三次元的な映像。それはもうほとんど実在する物質と同じです。映像はイメージですが、イメージではなく物体として操れるようなモノをどうやって描いていくか。

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▲Fairy Lights in Femtoseconds: with Artist Statement
https://www.youtube.com/watch?v=ML79u9zPZu4

今までの技術では、このカイワレ大根はプラズマによって燃えて消失しますが、この技術ではエネルギー強度が小さい状態で空中映像化しているため、植物のような繊細な有機体と接触しても大丈夫です。
このように、今までの人類の彫刻や映像ベースの表現ではなくて、その先にある新しい表現をいかに作るかが僕の研究です。こういった技術では、コンピュータがシミュレーションを行っている過程は三次元的に投影された情報の背後に隠れ、人間にはその結果しか見えなくなる。コンピュータ・シミュレーションやコンピュータ・グラフィックス技術の発展は、いずれ人間が結果のみを享受する世界を生み出すだろうと、コンピュータ研究者としての僕は考えています。

■ 物象化が告げるデジタルネイチャーの到来

では、なぜコンピュータによる表現は二次元から三次元へ、つまり物象化へと向かおうとしているのでしょうか。
脱構築主義の建築家にフランク・ゲーリーという人がいます。展覧会が今ちょうど都内で開催されているので、ぜひ観に行ってほしいんですが、彼は建築史的には、様式ごとに建て方や内部構造が決まっていた時代を外見のデザインを切り離すことによって刷新しました。例えば、外側に一枚も平面を使わないような建造物を立ててしまう。彼の登場によって、建築は純粋表現になりました。こんな建築が可能になった理由は、実装側・建てる技術としてのとしてコンピュータによる構造計算です。

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▲フランク・ゲーリー
http://blog.livedoor.jp/slimshady515/archives/50374397.html

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▲ウォルト・ディズニー・コンサートホール(2003年)
https://goo.gl/YtA2YF

つまり、人間が手と頭を使って構造を設計しなくても、コンピュータに数値を入れるだけで、巨大構造物として建造可能かが分かるようになった。有史以来、人間の脳のスペックはそれほど変わっていません。レオナルド・ダ・ヴィンチの頃と比べても、人類の頭はそれほど良くなってはいない。しかし、我々はコンピュータのリソースを使って、昔の人には絶対に計算できなかった建物を建てられるようになりました。
3Dプリンターや、コンピュータ・グラフィックスによる自動生成映像の登場によって、これまで人間の頭の中だけにあったイメージが、どんどん現実に現れるようになりましした。
表層的な「見た目」と中身の「機能」が、人間の頭脳ではなく、コンピュータによって結び付けられる時代。そこで重要になるのは、ピカソの頃には頭の中でしか描けなかったイメージを、いかにして現実世界に作り出すか、です。

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▲The Visual Microphone: Passive Recovery of Sound from Video
https://www.youtube.com/watch?v=FKXOucXB4a8

『魔法の世紀』の中でも紹介していますが、これはMITの友達がやっている研究で、超ハイスピードカメラで撮影した映像を元に、その空間に流れていた音を復元する技術です。「メリーさんの羊」が流れていますが、マイクは一切音を拾っていません。20KHzの超ハイスピードカメラを使って、画面に映っている葉っぱの微細な揺れを撮影し、その振動から逆算して音を再現しています。
今までのメディア機器では、ビデオは人間の目、オーディオは人間の耳に対応する単純な関係性しかありませんでした。しかし、これくらいのスピードで映像を扱えるようになると、視覚と聴覚の境界を飛び越えて、我々はもっと自由に物理空間を捉えることができるようになる。

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例えば、これはゾートロープという古典的な三次元映像装置ですが、3Dプリンターを利用することで、ゾートロープを使ったより複雑なアニメーションを作ることができます。

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▲All Things Fall – 3D printed zoetrope by Mat Collishaw
https://www.youtube.com/watch?v=_71c5jiIZrs

この映像では、3Dプリンターで出力したオブジェクトをコマみたいに回転させ、ストロボを当てることでレンダリングしています。コンテンツとしてどうなのかは分かりませんが、メディアとしては面白いですね。

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▲Spin-It: Optimizing Moment of Inertia for Spinnable Objects
https://www.youtube.com/watch?v=qquek0c5bt4

これは3Dプリンターを使って、あらゆる物体をコマ化する研究です。我々の身の回りにある物体は重心が合わないから回転させてもコマのようには回らないし、外見を見ても僕たちは、それが回転するかどうかなんて分かりませんよね。
ここでは重心が最適化されたオブジェクトを3Dプリンターによって出力している。そのためパッと見はどこにでもある物体ですが、一度デジタル空間を経て出てきたものなので、コマのように回してやるときれいに回転するわけです。
このような、一見デジタルに見えないけど、実はあらゆるものがデジタルの影響下にある社会が迫っています。電気を使うか否かに関わらず、デジタルの恩恵の下にある世界。僕はそれを「デジタルネイチャー」と呼んでいます。

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▲The EyeWriter
https://www.youtube.com/watch?v=84H-xLrLvvk

この世界では、メディアアートも社会の様々な場所へと溶け出していきます。
彼はALS(筋萎縮性側索硬化症)を発症して、身体の自由がきかなくなったグラフィティアーティストです。腕を動かすことすらままならない状態ですが、視線によるカーソルの誘導技術を使って、遠隔操作で街中にグラフィティを描いています。アートと社会福祉が一体となった試みです。

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▲Project Daniel – Not Impossible’s 3D Printing Arms for Children of War-Torn Sudan
https://www.youtube.com/watch?v=SDYFMgrjeLg

デジタルネイチャーの時代は、非電化の低価格なプロダクトを様々な場所に拡散する動きも活発になります。
これは両腕がない子供に3Dプリンター製の義手を提供する「プロジェクトダニエル」という活動ですが、義手といっても電気を使った精巧な機械ではなく、腕を曲げると触れた対象を握るだけのシンプルな義手です。しかし、この義手によって両腕がない子供でも、自分の力で食事ができるようになる。これは科学技術による達成として、万人が共有できる価値ですよね。
このように、現在のテクノロジーの方向性は2つに分かれています。従来からある技術をデジタル化によってコストを下げて世界中に行き渡らせるのか、もしくは高いコストを費やして先端技術を追求するのか。どちらかに振り切らないと個人的な活動が文化的な価値を持てない時代です。だからこそ「どちらもやっていこう」というのが、今のコンピュータ研究者のスタンスだと思います。

■ ミクロスケールの演算がもたらす可能性

一般的にメディアアートと聞くと、プロジェクターによって投影されたキラキラした表現を想像するかもしれません。
これは1998年に坂本龍一と岩井俊雄が発表した『MPI×IPM』という作品です。空中のスクリーンに映像を投影する表現は、ちょうどこの時代に完成されたんですよね。

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▲Ryuichi Sakamoto x Toshio Iwai – MPI x IPM (1997)
https://vimeo.com/2211999

映写機と音楽が一致する表現、これが90年代のトレンドで、従来のアートと電気的なアートがちょうどシンクロした時期でもあります。当時の表現はすべて美しい。我々はそれをいかにして今の時代に組み込んでいくのかを、本気で考える必要があります。

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▲Diminished Haptics: toward digital transformation of real world textures
https://www.youtube.com/watch?v=8ALazXQXpNo

以降の時代になると、単に映像だけの表現は出尽くしているので、映像と物体の差異を掘り下げたり、物体の質感を追求するような研究が増えてきます。僕もコロイド膜を使って質感を計算するような研究をやっています。
今の時代は、物質の性質をコンピュータの中にコピーする段階を終えたところで、今度は、コンピュータの中にある性質を物質側にコピーする、という試みが大きなテーマとして浮上しています。
コンピュータの中では、CGで描かれた木がいきなり水に変わる、といった表現は当たり前ですよね。ハリウッド映画でもよく見かけます。ならば、現実に触れられる鉄や木や皮の質感を変えることはできないのか。人間の感覚を騙すような技術も含めて、研究としては非常に面白い分野で、そういうことをカリカリとやっています。

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映像が表現として成立したのは、板や模型といったマクロなスケールの要素を自由に扱えるようになったからです。さらに対象物の反射や色といったミクロなスケールの要素までコンピュータから制御できるようになれば、実在する物体のありとあらゆる外見上の特徴をコントロールできるようになります。

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昔は、このウサギのオブジェクトをコンピュータでレンダリングするだけでも大変な作業でした。しかし、現在は約8倍のポイントで構成されたこのドラゴンも、スマートフォンでレンダリングできます。
さらに強化された演算性能は、より精緻なショウジョウバエやハツカネズミのレンダリングに向かいます。このようにテクノロジーの進歩によって、計算対象はどんどん移り変わります。ミクロスケールへのコンピュータの干渉は、バイオテクノロジー分野への接近を促し、医薬品や生物の遺伝子にコンピュータが直接作用するような技術を生み出すでしょう。
僕は、ソメイヨシノがあまり好きではないのですが、現存するソメイヨシノは全てクローンです。元は1本の挿し木から生まれたために同一の遺伝子を持っている。ならば、ソメイヨシノだけを全滅させるウイルスを作ることも可能なはずです(笑)。これもひとつのバイオアートですね。

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今はデジタルとアナログが区別しにくい社会になっていて、シマウマの縞模様のように入り乱れている状態です。デジタルもアナログもどっちがどっちなのかよくわからない。ならばそれを「一匹のシマウマでいいや」と、丸ごと理解する発想が大事です。
レイ・カーツワイルら未来学者たちの未来に関する様々な言及によると、我々の未来は、人間がコンピュータに支配されるか、コンピュータが人間自体の能力を強化するかの二択になると言われることが増えてきました。
しかし僕は、そのどちらでもないし、どちらでもいいような、中庸の視点から、このゴチャゴチャした世の中を、どうやって楽しく生きていくのかが重要だと考えています。

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▲レイ・カーツワイル
https://goo.gl/EZyQi3

■ デジタルネイチャーの到来へ向けて

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僕の研究室のテーマをまとめると次のようになります。
「モノから場への転換」――モノから場に変化していく世の中で、それをどうやって表現するのか。
「人と計算機の違い」――人と計算機の違いとは一体何か。人間には、コンピュータに支配されるのが楽しい分野と、主体的にやる方が楽しい分野の両方がある。
「時空間解像度」――時間や空間の解像度をどう捉え、どう変えていけるのか。

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こういった研究を続けていると、次第に「自然にデジタルなもの」と「デジタルに自然なもの」の区別がつかなくなります。
例えばレンズは、本質的にはフーリエ変換で無限遠の対象との関係性を作り出す道具で、「自然にデジタルなもの」です。僕が研究で使ってるフェーズドアレイとかSLM(Spatial Light Modulator=空間光変調器)といった装置は、デジタル制御でレンズと同じような機能を持っている「デジタルに自然なもの」です。
ナチュラルとデジタルで同じ機能を持つ道具の境目が無くなると、後はどっちを選ぶかはコストの問題でしかない。そういう社会では、デジタルと自然の区別がつかなくなり、やがてデジタルネイチャーが訪れるのではないかと考えています。

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彼はフランスでの展示の時に来てくれた男の子です。手を動かすことで、空中にあるモノを操ったり消したりして遊んでいます。
僕が彼くらいの年齢のときは、コンピュータグラフィックスに夢中で、画面の中で自由にモノを動かせるのが楽しかったんですが、今の世代は、コンピュータで世界そのものを操るのが楽しい。デジタルネイチャー世代にとってはこの世界自体が、プログラミング可能な対象になっているのです。

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そうなったら、僕がソメイヨシノを枯らすのも自由だし、僕が理想とする桜の色はこういう色なんだけど、これをどうやって世界中のソメイヨシノにウイルスを使って実装するか、本気で考えてもいい時代なわけです(笑)

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これからの研究はより学際的に変わっていきます。ひとつの研究を1人でやる時代から、複数の人と集団作業でものを作り出す時代になる。
実際に、僕はたくさんの研究者と一緒に仕事をしています。小さなコミュニティのチームから、圧倒的なものをいかに生み出すか。個人のビジョンと集団の技能を合わせることで、そこから個別の文脈がどんどん生まれてくるのを期待しています。

■質疑応答

Q:「PlayStation VR」は世界を変えるか?(Twitterからの質問)

落合 「PlayStation VR」の優れているところは、Oculus Riftと比べて出荷台数を期待できるところですね。日本のゲームマーケットはヨーロッパやアメリカに匹敵する規模があるので、迅速なフィードバックループを期待できる。
こういった先進的なデバイス全般に言えることですが、アーリーアダプター層にモノが行き渡る段階と、それが本当に広く普及していく段階とは、また別の話なんですよね。それを考えると、尖ったプロダクトよりも、あのちょっと丸くて一般人が使えるようなプロダクトの方が絶対にハケてくる。
ちなみにVRの分野でいうと、来年あたりに大きな変革をもたらすのはMagic Leap社だと思います。まだプロダクトは公開されてないんだけれど、マジでやばいので、今のうちに名前を覚えておいてください。

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▲PlayStation VR
http://goo.gl/1kbxaw

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▲Magic Leap Demo
https://www.youtube.com/watch?v=kw0-JRa9n94

Q コンピュータによる情報の物象化が進んだ世界では、コンテンツとメディアの関係はどのようになるのでしょうか。最初の牛丼の例えですと、どんぶりは物質的ですし、牛丼自体の解釈はやや意味論に近いと感じました。今はコンテンツとメディアは分離してると思うんですが、今後どういう風に変わっていくのか。

落合 コンピュータが三次元的な情報を生成するようになると、メディアとコンテンツのポジションは接近して、ある意味メディアアート的になるというか、機能と中身を同時に備えたモノが増えてくると思います。
ただ、そうなるとマーケット的にきついのは、コンテンツの多様性が失われることで、「プレステ4は凄いけど、そこで一番売れたソフトって何だっけ?」みたいなことになっちゃうんですよね。コンテンツの製作費も上がるし、よっぽど上手く組み合わせて開発しないと市場が先細ります。
ただ、プラットフォームの共通化によって、ある程度そういった問題は回避できるかもしれない。例えば「Galaxy VR Gear」は、機能的にはOculus Riftと同じですが、要はスマホの上にレンズを乗っけただけですよね。
専用バンドと一緒に配布される「Pokemon GO」もそうですが、今後しばらくの間は、メディアとコンテンツの距離を近づけることで、情報の物象化を擬似的に実現するプロダクトが重要になると思います。

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▲Galaxy VR Gear
http://goo.gl/aUu9tY

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▲Pokemon GO
http://www.pokemon.co.jp/ex/PokemonGO/

Q 落合さんのお話では、物理現象を人間の五感で認識した世界がベースになっていますが、僕はそれがあんまり信用できないんです。

落合 なるほど。君は年齢はいくつ? どういう意味で信用できないの? 五感が信用できないとか?

質問者 14歳です。感覚器官というよりも、その感覚器官を処理している脳を信用できない。

落合 「脳を信用できない」という議論を突き詰めていくと、人間の頭の中で行われている処理をどこまで現実とみなすか、という話になってくるんだけど、我々にとっての「現実」が根拠のない不確実な認識に過ぎないとしても、モノ自体からやってくる情報が示す物理法則については、おおむね信用できると思うんだよね。
確かに、僕が見ている赤色と君が見ている赤色が同じであるとは限らない。僕の頭の中では赤に見えているけど、ほかの人には違う赤が見えていて、それを「赤」と同じ言葉で呼んでいるだけかもしれない。
だけど、こういった観念的なイメージと「モノが存在する」という認識は違う。モノの実在性は先験的に知覚できるはずで。それが脳でどういう受け取られ方をするにしろ、物理的に感覚器官までは一定量の情報が届いているはずだよね。少なくとも網膜までは正しく光が入ってきていると思わない?

質問者 僕はもうちょっと一人称的に捉えていて、脳が存在してることも確信が持てないし、この世界があるのかについても信じられない。

落合 この世界が存在するか否かに関しては、俺は「存在する」派です。
世界の実在性を疑う議論としては、バートランド・ラッセルが「世界は5分前まで存在していなかった」という説を唱えたことがあるし、その反証不可能性については、ホワイトヘッドやゲーテルが、ひとつの公理系の内部からは、その公理自体の矛盾を導き出せないことを証明しています。
ある認識の内部にいる我々は、その認識自体の正しさを確かめることができない。これは数学的に証明されているので、後は信じるかどうかです。もちろん信じないって手もあるけど、俺は、世界の実在を信じているんですよね。

Q 最近話題のシンギュラリティに関して、どのようにお考えですか?

落合 シンギュラリティは遠い、というのが俺の結論です。
『魔法の世紀』は100年ぐらい先までを見通した議論で、2100年頃までにはシンギュラリティに到達するだろうと考えています。でも、今後10年20年で実現するかといえば、それはないでしょう。
理由は、ディープラーニングの論文をちゃんと読めば分かるのですが、現時点で全然大したことができていない。あと、コンピュータの処理速度が今までのようには向上しなくなっているからです。量子コンピュータの実現可能性まで含めて考えると断言しがたい部分はありますが、それも今ある核磁気共鳴やレーザーを使った手法では、上手く行く可能性は低いと思います。
バイオに関しては、2000年代に想像されていた未来よりもはるかに先に進みました。冒頭でも触れたCRISPR/Cas9の登場により、簡単にゲノムの編集が行えるようになったからです。計算機の分野でも今後、そのような画期的発明がないとは言い切れませんが、現時点ではシンギュラリティは遠いというのが、俺の見立てです。
そうすると、我々はしばらくの間は今まで通りの社会で生きていくことになります。そこでは、少しずつあらゆるものが便利になり、一方で古い技術や産業の淘汰も、ゆっくり進んでいくことになると思います。
その変化の先には、現在人間が行っている仕事がコンピュータに代替される社会が訪れるでしょう。ただし、ロボット的な性能の部分では、人間はコンピュータよりはるかに優秀なので、人間が手を動かす場面は残るはずです。コンピュータの指示通りに人間が働く、という業態が増えていくと思います。

Q ソメイヨシノの話がすごく面白かったんですが、そこでちょっと気になったのが、ブレイン・マシン・インタフェース、つまり脳に直接作用することで見え方を変える技術も将来的には可能になると思います。そういった脳を直接いじる方向ではなく、物質にこだわるのはなぜですか?

落合 いい質問ですね。人間の脳は神経細胞の集積量から考えると、かなり処理能力は高いはずなんですね。コンピュータが人間の脳を直接操作できるようになるには、シンギュラリティを超えていく必要がある。
例えば、目の網膜に映像を映すような技術は、それほど遠くないうちに実現するでしょう。しかし、それを大脳皮質の視覚野に作用させるとなると、途端に難易度が上がります。
そこが大きな差で、我々は脳のどの部分でどういう処理をして何色に見えているのかを、電気信号的に解析できていない。脳に直接電極をぶっ刺すと言っても、電極からどの信号を送ったらいいのかが、まだ未解決の大きな問題として残されています。
確かに、腕や足のような大雑把な部位なら脳に電気信号を与えて動かせますよ。頭で考えた通りにカーソルを動かす技術も、脳からのアウトプットに限定された処理なので、例えば右手を動かしたつもりになって操作するなら、その部分の脳細胞の表面から電気を取ればいい。
それに対して、脳へのインプットに関しては、どうしようもなく難しいのが現実です。コンピュータからの入力で何かが見えるようになるとか、そういう高次的な脳の処理に介入する技術は、今の段階では全く見通しが立っていない。
脳に干渉して目の前にリンゴを出現させる計算機的なプロセスは、現実空間に接触可能な3Dのリンゴを投影するよりもはるかに難しいんです。

(了)

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