井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第26回 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2018.07.17
  • IT&ビジネス,ゲーム,井上明人

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第26回 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥)

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。ゲームを構成する様々な要素は、快楽の観点からゲームそのものと区別することはできるのか。これまで議論してきた強化学習プロセスをさらに拡張し、社会の中で自己生成し続ける運動の原理としてのゲームのあり方を考えます。

3.8 ゲームにとって快楽とは何か――「快楽」説の検討(学習説の他説との整合性⑥)

3.8.1 インタラクティヴな快楽のすべて

「ゲーム」にとって「快楽」とは何だろうか。この二つの関係を整理しよう。

コンピュータ・ゲームや、麻雀、将棋、野球といったルールやゴールやインタラクションを備えた仕組みが「快楽」を誘発する場合、多くの人はそれを「ゲームを遊んでいる」状況とみなす。もっとも、「快楽」と結びつかないようなゲーム的な行為もあるが、その点についてはすでに論じた【1】 ので、ここではゲームが快楽と結びついているケースについて検討したい。

「ゲーム的な形式が、快楽を誘発する」という意味では、試行錯誤を重ねていきながらゲームを遊ぶような学習的プロセスも、パチンコ的な反復的な依存状態も、傍からみれば似たようなプロセスかもしれない。しかし、両者の快楽には隔たりがある。

前者は、次第に変容していく新しい状況に対して認識を組み替えていくプロセスである。それは人間の創造的な営為でもある。

一方、依存的なプロセスの場合、新奇性のないものについて「忘却」と「過去の刺激の想起」によって強化学習プロセスが機能することを、どうにか生き延びさせている。

すなわち、学習的なプロセスは「変化を繰り返すプロセス」であり、依存的なプロセスは変化が繰り返された結果、「同一の行為の反復」に至りつつあるものとして整理できる。 【2】

試行錯誤の快楽と、慣れ親しんだものを繰り返す快楽とでは、その快楽の性質にも違いがあるだろう【3】 。

繰り返しになるが、ここで確認しておきたいのは、どちらも「ゲーム的な形式が、快楽を誘発する」という意味では等価でありながら、そこであらわれる快楽の性質が異なっているということだ。

この「快楽」の性質はどこまでのバリエーションが「ゲーム」に類するものとして認められるのだろうか?

すでに何度か述べてきたが【4】 、「ゲーム」概念の幅を広くとろうとする場合にはたとえば、「インタラクティヴ」な行為であるかどうかというところに境界線を引かれれることがある【5】 。

そしてインタラクティヴであることによって線引きをする場合、ほぼセットになるのは、単にインタラクティヴというのみならず、何らかの「快楽」がそのインタラクティヴィティによって成立しているのだという観察だ。

快楽の経験をつくりだすためではない辞書ソフトや、ワープロソフトはたとえインタラクティヴであっても、それがゲームの一種としてみなされることは極めて少ない【6】 。インタラクティヴであって、快楽を伴わないものは、ほとんどゲームとみなされることはない。

逆に言えば、「快楽」が伴うインタラクティヴな行為であれば、それはゲームとしてみなされうる【7】 。こうした広い定義の採用は、論者がいい加減なのではなく、論じたい対象の幅を広くとりたいケースにおいてしばしば見られる。

しかし、Juulが「Classic Game model」について同心円状の図を描いてみせたように、すべての快楽が等しく「ゲーム特有」の経験として受け入れられているわけではない。

たとえば、ゲームのなかで華麗な映像がカットシーンとして流れた時、映像の素晴らしさを認めたとしても、その映像によってもたらされた快楽を「ゲーム特有」の経験によってもたらされた快楽とは認めないはずだ。

美しい映像がもたらす快楽、ヒキのあるシナリオがもたらす快楽、あるいはゲームのなかに登場する性的な表現による快楽……それらはいずれも、コンピュータ・ゲームのパッケージを介して発生しうる快楽だ。しかし、そうした快楽はゲームに特有の快楽とはしばしば認められず、ゲームに特有の経験ではないものとして拒否される。一九九〇年代から二〇〇〇年代にかけて、こうした快楽のどこまでが「ゲーム」たりうるか、ということは何度も議論になってきた。【8】

美しいカットシーンがゲームではないとか、シナリオ自体はゲームではないという批判は一見すると、わかりやすい。実際問題としては、それらはしばしばゲームとは別のメディアによって表現することも可能だ。実際に、『シェンムー』(一九九九)などは、ゲーム内のカットシーンを集めたものを『シェンムー・ザ・ムービー』(二〇〇一)という映画として公開している【9】 。映像の美しさや、ゲーム内音楽、ゲームシナリオの全てゲーム特有の経験とされてしまうのならば、絵画も音楽も小説もなんだって「ゲーム」との区別がつかなくなってしまう。

しかし、美しい映像を万華鏡のように操作したり【10】 、音を奏でることとゲームプレイが密接に結びついていたり【11】 、プレイヤーの行動に応じて物語が変化したり【12】 するものはゲーム特有の経験と連続したものとしてみなされる。

これは、コンピュータ・ゲームに慣れ親しんできた人であれば、そこで論じられていることを実感としては理解しうるだろう。

ただし、こうした議論というは、ゲームのアーキテクチャによって引き起こされる快楽のうちのいくつかは、「ゲーム特有」のものではないとされ、いくつかのものは「ゲーム特有」のものと連続しているとみなす議論だ。

いったん話を整理しよう。

今、問うているのは「ゲーム」と「快楽」の関係だ。

第一に、広範な対象をゲームとして取り扱おうとする場合には、「快楽を伴うインタラクティヴな仕組み」全般が「ゲーム」としてみなされる。これはアリかナシか、で言えば、アリだ。これが操作的定義として自覚的に用いられるのならば、何の問題もない。

そして、第二にここまで長々と論じてきたように、狭義の定義を用いるのならば、そこには学習説的な説明がかなり有効である。Juulの「Classic Game Model」による狭義のゲーム概念と広義のゲーム概念をグラデーション状に位置づける議論も、学習説的な説明とかなり近いものだ。駆け引きの快楽や、物語の生成プロセスや、依存的な経験は、強化学習プロセスと連続したものとして位置づけることができる。これらは、全く同じものとは言えないが、確かに強化学習プロセスとの間の連続性を見出すことができるものだ。

ごく短くまとめるならば、「コンピュータ・ゲームのようなパッケージには様々な快楽を詰め込める。そして、そのなかでも強化学習プロセスの快楽は他の快楽のハブとなりうるような特権的な快楽である」ということだ。

そこまではいい。

3.8.2 快楽経験の変換

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