井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第18回 物語からゲームへ【毎月第2木曜配信】 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2017.08.10
  • 井上明人

井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第18回 物語からゲームへ【毎月第2木曜配信】

ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前回に論じた2つのゲーム的形式をふまえ、今回はゲームと物語の関係について捉え直します。

3−5.物語認知とゲーム(学習説の他説との整合性③)

3-5-1.二次的フレームとしての「物語」

前回の議論で、ゲームというものが日常の内側にあるものか、外側に在るものかについて論じ、日常(一次的現実)の内側にもゲーム的な体験の一種(二次的フレーム)は充分に成立しうるという結論を得た。そして、また我々が「ゲームを遊ぶ」とき、我々の日常の感覚と、それにもう一つの感覚が重ね合わされた、重層化された経験を生きることであるということを確認してきた。一つの時間を、感覚が重ね合わせられた状態として経験する、というのは珍しい経験ではない。
これらの話を前提として、次の論点に進みたいと思う。ここまで「二次的フレーム」という述語をあくまで「ゲーム」に関わる認知の形成として扱ってきた。しかし、世界のありようを理解するフレームは「ゲーム」的なものだけではない。その代表的なものの一つは「物語」だ。そして、この「物語」と「ゲーム」は少し難しい関係にある。
今回はこの「物語」と「ゲーム」の関係について考えたいと思う。

「物語」について「ゲーム」を論じる文脈のなかで語るということは、しばしばある種の問題について語ることと同義とみなされる。
たとえば、ゲームと物語はしばしば対立関係にあるものとして語られる。ゲームというメディアが持つインタラクティヴな性質と、表現メディアとしての物語がもつ固定された性質との対立というものが重要な対立であるとみなされることは、コンピュータ・ゲームについて議論する文脈では、たびたびとりあげられる[1]。この対立関係には「ludonarrative dissonance」[2]という用語まである。
たとえば、RPGの物語上で「強い」とされているキャラクターが仲間に加わったときに、レベル上げをしすぎていた場合そのキャラが「強い」という物語上の設定を受け入れるのに違和感が出てしまったり、物語上の強力なボスの手前でゆったりと宝箱を物色していたりするときの違和感といったものは、ゲームメディアのインタラクティヴな性質と固定された表現としての「物語」の対立の一例になるだろう。
「物語」は、現実理解のフレームの一つとして極めて強力なものだが、このような事情から、ゲームとは対立構造にあるものとしてしばしば語られてきた。
しかし、今回はこの対立について扱わない。この問題は重要な論点の一つではあるが今回論じようとしている文脈では不可避の論点ではないからだ。こうした対立は「ゲームと物語の本質的な対立」というよりは、「ゲームのもっている性質の一つと、物語のもっている性質の一つの対立」という部分的な問題にとどまる[3]。
どういうことか。
ここまで「ルール」の話[4]でも、「非日常」の話[5]でも、繰り返してきた話だがある対象に対してプレイヤーが抱く主観的な認識の問題と、対象そのものをここでも分けて論じることにしたい[6]。その前提に立ったうえで、整理するならば、「ゲームと物語の対立」というのは、プログラムの束としてのゲームと、テクストや音声として固定化された物語の対立という部分的な問題にすぎないといえる。映画/マンガ/小説/ゲームシナリオといった形で表現された「物語」は確かに固定され、閉じたものとしての性質を持つが、それは表現メディアとしての性質であって、我々が日常において経験する物語的な認識プロセスとか、物語の経験全体が閉じているわけではない。家族や友人と、今日あった出来事について話し合うときに、そこで語られる物語は決して閉じているわけではない。そのようなときに語られ/生成される物語は、固定されているどころが、インタラクションを通じて生成されるものだ[7]。我々の日常は、小説を読むようにして流れているわけではない。そして、今回扱おうとしているのは、このような現実理解の枠組みとしての「物語」の現れ方である。
結論を先取りしていえば、世界を理解する仕方としての「物語的な理解」と、「ゲーム的な理解」といったものは、対立するどころか相互になだらかにつながっている。
それは本連載の当初、イラクにおけるアメリカ軍の「誤射」の映像を、リークした事件についての複数の感覚の現れについて理解するうえでも重要な議論だ。イラクの人々のドキュメンタリー映像を見て、ノンフィクションの記事を読み、同時に中東の戦場へと赴くゲームをプレイするとき(1)「戦争が人々の生活を残酷に破壊してしまった」(2)「これなら誤射をしてしまいかねない」というふたつの感覚はパラレルに成立する可能性がある、ということを論点としてとりあげたが、この問題の理解にも関わるものだ。

我々の日常の中にも、非日常のなかにもゲーム的な状況も、物語的な状況も埋め込まれているし、埋め込まれうる。そして、このように「ゲーム」が日常のものに混ぜ込まれうる、という前提は「ゲーム」観について、いくつかの新しい事態をよび起こすことになる。
「物語」と「ゲーム」概念の差分について確認をしながら、それがいったいどういう意味なのかを示していきたい。

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