デジタルネイチャーの時代――落合陽一『魔法の世紀』第8回 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.07.08
  • 落合陽一

デジタルネイチャーの時代――落合陽一『魔法の世紀』第8回

本日は落合陽一さんの好評連載『魔法の世紀』の最終回、「デジタルネイチャーの時代」をお届けします。人があらゆる理を操る「魔法の世紀」が実現していくなかで、〈人間〉という存在はどうなっていくのか――これまでの連載を総括しつつ、大胆な未来予想を描き出します。

こんにちは、落合陽一です。
昨年の連載開始から長く続いてきました魔法の世紀ですが、今回が最終回になります。今まで、たくさんの方々に支えられてきた魔法の世紀の連載ですが、今一度、担当編集者の稲葉ほたてさんと、編集長の宇野常寛さん、そしてPLANETSの皆様に多大な感謝を――。
その一方で、嬉しいお知らせもあります。この連載の書籍化が決定しました。出版社は、このメルマガを運営するPLANETSで、会社としても最初の単行本になるそうです。

さて、前回までに僕は、コンピュータの世紀となる21世紀の美や、そこでの人間の価値観をどうアップデートするのかを語ってきました。その中で、表層・深層の話について、古典的な議論と現代の現象を対応づけながら、議論をしてきました。この最終回では、最後に僕自身が今後実現したいと考えている未来の話をしたいと思います。一体、僕がこれからどういうことをして、世界がどうなっていくのかを書いていきたいと思うのです。

1.コード化する自然:デジタルネイチャー

今年の春から、僕は筑波大学の図書館情報メディア研究科/情報メディア創成学類に自分の研究室を立ち上げました。

digitalnaturegroup
Digital Nature Group – 落合陽一 デジタルネイチャー研究室

この研究室を始めるときに、僕がラボの名前として選んだのが「デジタルネイチャー」という言葉でした。

これは僕が考える「魔法の世紀」の世界を象徴させた言葉です。魔法の世紀が21世紀の時代を表した言葉なら、デジタルネイチャーは21世紀の世界を表した言葉だと思ってください。
この連載でも書き続けてきたように、魔法の世紀はリアル/バーチャルの対比構造が、コンピュータによって踏み越えられて、作り変えられていく世界です。とすれば、そうして作り替えられた未来の世界をあらわす「固有名詞」が必要だと思いました。それが、このデジタルネイチャーなのです。ユビキタスコンピューティングという言葉がコンピュータがばら撒かれた世界のあり方だったなら、デジタルネイチャーとはそのコンピュータという存在自体も溶けてしまっているイメージです。

ただし、デジタルネイチャーという言葉を聞いて、サイバーパンクのようなSFチックな意匠で覆われた世界を想像するのは間違いです。まずは、そこについて、いくつか例を出しながら話していきたいと思います。

たとえばスイスのETHという大学で行われている研究を紹介しましょう。これは物体の重心についてのアルゴリズムを使って、3Dプリンターで出力される物体の重心を調整してしまう研究です。

Spin-It_OptimizingMomentofInertiaforSpinnableObjects
Spin-It: Optimizing Moment of Inertia for Spinnable Objects

上の動画を見ていただければわかりますが、この3Dプリンタを用いると、様々なものがコマに変わってしまいます。もし、あらかじめ重心を調整をしていないマテリアルで、こういう結果を得ようとしたら、外力から重さの不均等を打ち消す程度に合力を調整する必要があります。

もう一つの事例は、僕です。
実は最近、僕はまだ日本で数千件しか例がないという、眼球内にコンタクトレンズを埋め込むインプラント手術を受けました。この手術に使ったコンタクトレンズは、僕の眼球に合わせて度数なども含めた形状の計算をコンピュータで精緻に行っています。

ピンホールメガネ
▲疲れた目をリフレッシュ! 遠近兼用 ピンホールメガネ

この視力にまつわる研究は、捉え方によってはデジタルファブリケーションとして行うことができます。ピンホールがメガネの役割を果たすという話を聞いたことがある人も多いと思いますが、例えば、ピンホールの分布を変えて入ってくる光の量をコントロールすることや、一人一人の目にあわせた位置に作ることなどができるでしょう。それをレーザーカッターを用いることで加工すれば、コンピュータ計算を用いてアナログに実装した、ピンホールメガネをつくることができるはずです。

こうした事例から分かるのは、現代のコンピュータというものが、かつての我々の想像を超えて現実世界を制御する力を持ち始めていることです。特に重要なのが、それが私たちが得る情報のあり方を大きく変えて、そのことによって世界像の認識を変えてしまう領域に達してきたことです。

例えば、インプラント手術によって、僕の視力は2.0を超えてしまい、目の前の風景は大きく変わりました。旅行に行けば、他の人には見えない看板の文字が読めるようになり、地平線の向こう側の風景も見えるようになりました。また、視力が2.0を超えたことで、新しい発見も生まれてきました。その発見の一つが、頭が上手く働いていないときには、視力が劇的に低下するというものです。不思議なことに、寝覚めが悪かったり、疲れた夜には視力が下がってしまうのです。どうやら人間の視覚機構は、光学的な情報を得るだけではなくて、それを脳内でパターン認識などを構成する過程まで含めたものであるらしい――こういうことが、体験として理解できてしまうのです。

一方で、重要なのは、こういうアナログな物理世界をデジタル的に制御する手法の「逆」もまた存在しているということです。
上の事例でいえば、コマは空間自体をアクチュエーションして、外力を合成すれば同じ結果を得ることが出来ます。視力については、MITが最近行った研究がそれに当たるでしょう。彼らは、ディスプレイから出る光を上手く調整してぼかして出力することで、ちょうど網膜上で焦点が結ばれることを示したのです。こうすれば、眼鏡なしにディスプレイを見ることが可能になります。

こういう研究から分かるのは、一つの問題を解くのに、ニつの手段があることです。
一つは、コンピュータ計算で作られたピンホールメガネのように「デジタル処理されたアナログな物質」です。もう一つは、ディスプレイそのものが視力に対応した形になるようにした「アナログな物質を変化させるデジタル計算機」です。とすれば、デジタルなアナログで行くか、アナログなデジタルで行くかなど、コスト計算のあとに来る選択の問題でしかありません。
このように、目の前にある世界をデジタルとアナログを行き来しながら問題解決していくのが、デジタルネイチャーの時代の特質だと思います。僕の考えるデジタルネイチャーとは、ユビキタスコンピューティングとプリンティングテクノロジーによって再構成された自然のことです。そこには、電化/非電化に関わらず、何らかの計算機の作用によって生じてきた万物が含まれています。

この背景には、この世界の構成要素である物質や、そこに作用する場などの性質が、コンピュータでかなり精緻にコントロール可能になったことがあります。つまり、デジタル/アナログにかかわらず、全てがコードによって記述されていく時代が来ているのです。
それは、あらゆるものが計算機的な性質を秘めていくような事態と言えるでしょう。人間もその例外ではありません。身体の構成要素である物質は、その構成や素材の水準から制御されていくでしょう。一方で、環境側からのアクチュエーションも盛んに行われていくはずです。

そのとき、この連載でずっと書いてきたようなメディア論も大きく変わります。モノと人間を分けて、「メディアとそれを受容する人間」という対比構造の図式で考えるような、「人間中心主義のメディア意識」は変化を迫られるはずです。なぜなら、人間とはデジタルネイチャーの世界では、せいぜいが計算機で処理されるアクチュエーターであり、認知的なロジックを持ったコンピュータに過ぎないからです。
たとえば、VRコンテンツのことを考えてみましょう。機械をつかったOculus Riftの体感コンテンツとして、様々なアトラクションが作られています。その一つとして、HPIの研究にHaptic Turkというものがあります。これは、人間をアクチュエータとして用いた良い例です。

haptic turk
▲Haptic Turk: a Motion Platform Based on People

音楽ゲームをする感覚で人間をシーケンサーでコントロールして、人をアクチュエータの代わりに使っているのがわかると思います.コンピュータを中心に捉えることで、逆に人間を比較的「安価なアクチュエータ」と考えることができてしまうのです。

2.人間中心主義のメディア意識

今、僕は「人間中心主義のメディア意識」という言葉を使いました。実際、これまでのコミュニケーションメディアは、人間中心主義で構成されていたと思います。

例えば、先日とあるシンポジウムの質問の際に、「あなたはデジタルとは言うが、実はアナログにはアナログの良さがないだろうか。例えば、レコードにはCDにはない暖かみがあると思う」という話をされました。それに対する僕の回答は、「いや、それは現在のCDの規格が、解像度を低めに設定しているだけです。現代の技術で本気で解像度の高いCDを作れば、レコードなんかより遥かに生身の演奏の情報が再現された再生装置が作れますよ」というものです。
CDに人間の生身の魅力が吹き込まれていないのは、デジタルの問題ではなくて、むしろコストを掛けずに大量生産をしたいという資本主義の問題です。

実際のところ、「映像の世紀」である20世紀に我々の周囲に生まれた複製装置は、どれも人間の感覚器の解像度を基準にして作られています。
例えば、アニメやゲームのビジュアル表現におけるコマ送りは、60fpsが基本となっています。これは、人間の目に区別がつかなくなるラインが、1秒に60回程度の書き換えだからです。この数字まで出していれば、充分に滑らかに動いているように見えるのです。また、音であれば、サンプリング周波数が高々40kHzあれば、人間の可聴域である20kHz程度の音まで再生可能です。

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