【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第6回 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.10.11
  • 井上敏樹,小説,月神

【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第6回

平成仮面ライダーシリーズでおなじみ脚本家・井上敏樹先生。毎週金曜日は、その敏樹先生の新作小説『月神』を配信します! 今回は第6回です。


 

 満寿代という名の女だった。
 女はおれを正治と呼んだ。もし満寿代が本当の母親ならおれの名前は正治ということになる。くだらない名前だ。なんの面白みもない。頭の悪い女が付けそうな名前だ。
 満寿代は入れ代わり立ち代わりおれの元にやって来る娼婦のうちのひとりだった。
 他の女たち同様、満寿代も食事を運んだり耳垢を掘ったり爪を切ったりとあれこれおれの面倒を見てくれた。別段、変わったところのある女ではなかった。ただ、誰よりも料理が不味かったし、そして島で一番の美人だった。年の頃は二十から三十の間だった、と思う。
 珍しく夜遅くに現れた満寿代はびっくりした表情でおれを見つめた。殺したばかりの子山羊の生肉を食べていたおれの口は血で濡れていたし、まだ包皮をかぶったままの性器がぴんと張り詰めていたからだ。山羊の肉を食べる度におれの性器は元気になった。それでも満寿代はなにも言わず持参した何枚もの濡れ雑巾で掃除を始めた。着物の裾と袖をたくし上げ掘っ建て小屋の床を拭き、おれは子山羊を食べ続けた。やがて満寿代は掃除を終え、おれが肉を食べ尽くすと、
「ねぇ、正治」
 おれの性器に語りかけた。
「今まで黙っていてごめんなさい。お前を産んだのは私なんだよ」
 そう言った。
 それからと言うもの、満寿代はますます頻繁におれを訪れるようになった。時には小屋に泊まっていき、島の婆たちが作ってくれた小さな蒲団の中でおれを抱いて一緒に眠った。
 他の女たちとかち合うと満寿代はあからさまな意地悪をして追い返した。島一番の美人である満寿代は、なかなかの力を持っていた。美人の方が客を取れる。島民の中で満寿代が逆らえないのは元締めときい様ぐらいだった。
 満寿代は度々他の女の悪口をおれに聞かせた。
 あの女は育ちが悪い、あの女は盗人だ、あの女は病気持ちだ、あの女は意地が悪い、あの女は若い衆と出来ている、あの女は客を殺して海に捨てた………。
 元締めときい様の悪口も忘れなかった。元締めはやくざ者の守銭奴だ、きい様は頭が狂っている。
 本当はね、私はこんなところにいる女じゃないのよ、と満寿代は言った。
 私のお父さまはとても偉い人だった、政財界の顔役だった、私はこの島よりも大きな屋敷に住んでいた、女中さんが何人もいた、うちの雨戸を全部閉めようとすると女中さんが力を合わせても何時間もかかった、それほど大きな家だった、うちにはお宝が沢山あった、金や銀や宝石や、外国の美術品で溢れていた、でも、お父さまが病気で亡くなったせいで没落した、私はお母さまと弟を守るために工場で働く事にした、朝から晩まで額に汗して働いた、工場主が私を見染め言い寄って来た、私はお母さまと弟のために妾になった、工場主はお父さまが残した借金を返してくれた、旦那は優しかった、私は妾ではあったが幸せだった、でも、習い事の帰り道、書生さんと知り合った、突然の雨に困惑している私に傘を貸してくれたのがきっかけだった、私と書生さんは恋に落ちて私は妊娠した、それが旦那にばれて怒りを買った、旦那が払ってくれたお父さまの借金は私の借金になり、旦那は私を売り飛ばした、お前の父親は書生さんだ、きれいな顔の書生さんだ、きっと書生さんは偉くなって私を本島で待っている、私はお金を貯めて島を出る、その日は近い、もちろんお前も一緒に連れていく………。
 実際、満寿代は金を貯めるために一生懸命、昼夜問わずに働いてた。
 島一番の美人である満寿代は多くの得意客を持っていた。そして島で一番大きな声を出す女でもあった。
 夜中に月を見上げていると、遠く、長屋の方からよく満寿代の声が聞こえて来た。その悦楽の声は微かではあったが、海からの風に乗って島全体に染み渡っていくようだった。
 『森の戦車』を発見したのはこの頃の事だった、と思う。
 三日月が暈を被り七色の光を投げかける夜、島の探索に出掛けたおれはまだ踏み込んだ事のない森の奥まで脚を延ばした。
 狭い島だったが西側半分が山岳地帯で東側の山裾は起伏の激しい森林地帯になっていた。奇妙に静かな森だった。おれは何度も森の中を旅したが数種類の昆虫以外、生き物らしきものを見た事がない。蛇一匹、鳥一羽見た事がない。虫ケラたちもどこか覇気がなかった。蜘蛛は中途半端に巣を張ったままだらりと糸にぶら下がり、蛾は樹皮に同化して動かず、だんご虫はだんごのまま開かない。
 動物たちはおれの気配を察して身を潜めていたのだろうか? 月の力を得て寺院のような肉体と鬼のような活力漲る不死身の人殺しになるであろうおれの未来の姿を見て怯えていたのだろうか。
 この頃のおれはまだ子供ながら逞しい筋肉を獲得しつつあったが、森の戦車もまたおれの成長に貢献した。肉体的な発達だけに止まらず、月とおれの関係をより強めるような機会をくれた。
 それは旧日本軍の戦車だった。
 最初、おれにはそれがなんであるのか、さっぱり見当がつかなかった。ただ、それがそこにある事に強い違和感を感じたのを覚えている。
 それは森の闇の中で月の木漏れ日を浴びながらぬめりと緑色に光っていた。
 もし、その時のおれが戦車というものを知っていたなら、おれの違和感はさらに強いものになっていたに違いない。なぜなら戦車の四隅には図太いくぬぎの樹ががっちりと食い込んでいたからだ。まるでくぬぎの樹によって磔にされているようだった。
 たとえ戦車が樹々をなぎ倒し森を蹂躪して来たのだとしても、こんな風に樹の牢獄に捕らわれるはずがない。
 おれは長いこと戦車を見つめ、おそるおそる近寄って指で触れた。
 じんと冷たい感触に指が痺れる。拳で殴った。こんな固いものを殴ったのは初めてだった。
 おれは森の戦車について満寿代に訊ねた。
 ああ、きっとそれは戦車ね、と満寿代は答えた。
 さらに訊ね続けると、人殺しの道具だ、と教えてくれた。昔、きい様が森の中で見たって言ってたけど、本当だったのね、頭のおかしい婆の法螺話だと思っていたけど。
 だが、それだけだった。満寿代はまるで戦車に対する興味も疑問も持っていないようだった。

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