『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第4回 のび太系男子の闇・後編 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.11.05
  • ドラえもん,稲田豊史

『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第4回 のび太系男子の闇・後編

今朝のメルマガは稲田豊史さんによるドラえもん論『ドラがたり』の第4回です。今回は3回連続シリーズとなった「のび太系男子の闇」最終回をお届けします。
のび太とドラえもんの関係を「ホモソーシャルの典型」と捉え、「さようなら、ドラえもん」「帰ってきたドラえもん」「ションボリ、ドラえもん」といった有名エピソードの例を挙げつつ、「のび太系男子の闇」がどのようにして発生するのかを考察します。


 

稲田豊史『ドラがたり――10年代ドラえもん論』これまでの配信記事一覧はこちらのリンクから。

前回(第3回)、のび太の欠陥人格は藤子・F・不二雄の独善的な自己肯定の結果であると述べた。ダメでも、残念でも、変わらなくていい。弱さをさらけ出し、無邪気に欲求を表明すれば、いつか誰か(ドラえもん)が助けてくれる。美少女(しずか)をモノにできる。そんな大甘な受け身思考が骨の髄まで染み付いてしまったのが、『ドラえもん』を読み、見て育った30〜40代男性を中心とした「のび太系男子」というわけだ。
さて、そんなのび太系男子が多感なティーンエイジャー〜大学生だった頃、その後20年以上にもわたってジャパニーズサブカルチャーに大きな影響を及ぼすTVアニメが放映された。ご存知『新世紀エヴァンゲリオン』(1995〜96年TV放映)である。
「大甘な受け身思考」というOSがインストール済みののび太系男子予備軍は、おそらく高確率で『エヴァ』にハマり、「逃げちゃダメだ野郎」こと14歳の主人公・碇シンジに自己を投影した。まるで、のび太に自己投影した藤子・F・不二雄のように。自分の弱さを素直にさらけ出し、女性全般に母性を求め、本能に基づいて甘えるシンジは、言わば精神的成長を経ないまま中学生になった野比のび太。のび太系男子予備軍が親近感を抱くに値するキャラクターだ。
そのシンジには、自分を救ってくれると確信した精神的パートナーにして、超のつくホモソー的バディが存在する。第17使徒タブリスこと、渚カヲル少年だ。
「ホモソー」すなわち「ホモソーシャル」とは俗に、「異性愛者である男性同士に発生する強い連帯関係」のことを指す。仲が良すぎて女性が入っていけない男子同士の友情関係、といえば聞こえはいいが、ネット界隈でもよく見かけよう。『スター・ウォーズ』や『ガンダム』や『仮面ライダー』や『ダークナイト』や女性グループアイドルを喜々として語り合う男性たちの間に漂う、「女人禁制」の空気を。彼ら全員の顔には「女には、我々が愛でるものの素晴らしさの本質を絶対に理解できない」と書いてある。その強い排他性と閉鎖性が、男だけで満たされた空間の快適性に直結しているのは明らかだ。
『エヴァ』でカヲルはシンジを導き、シンジはカヲルに絶対的な信頼を寄せた。……この構図には既視感がある。そう、シンジにとってのカヲルと、のび太にとってのドラえもんは、立ち位置が似ているのだ。のび太にとってドラえもんはもちろん「親友」だが、単なる友情を超えた絶対的な信頼と図抜けた精神的依存が、そこにあるからだ。

のびドラのホモソーエピソードとしてもっとも有名なのは、「小学三年生」1974年3月号の最終回として描かれた「さようなら、ドラえもん」(てんコミ6巻)と、同じ読者が進学して翌月に読むことになる「帰ってきたドラえもん」(「小学四年生」1974年4月号に掲載/てんコミ7巻)である。どちらもドラファンには説明不要の名編だ。
「さようなら、ドラえもん」では、ドラえもんが未来に帰らなければならなくなる。野比家のお別れ会を済ませた最後の夜、普段は別々に寝ているふたりは、今夜だけ“同じ布団で”床に就く(端的に、ここは萌えである)。しかしなかなか眠れない。そこでふたりは夜の散歩に出かける。

ドラえもん「できることなら……、帰りたくないんだ。きみのことが心配で心配で……」
のび太「ばかにすんな! ひとりでちゃんとやれるよ。やくそくする」

感極まるドラえもんが涙を見せまいと姿を隠した隙に、ねぼけて徘徊するジャイアンに見つかってしまうのび太。いつもどおり絡まれ、ドラえもんを呼ぼうとするも、すんでのところで声を抑える。「けんかなら、ドラえもんぬきでやろう」。あんのじょうボコボコにされるのび太だが、いつもと違ってひるまない。何度殴られても、立ち上がる。

「ぼくだけの力で、きみに勝たないと……。ドラえもんが安心して……、帰れないんだ!」

ボロきれのようになりながらも、ジャイアンに爪を立てて粘り勝ちするのび太。そこにドラえもんが現れる。「勝ったよ、ぼく」と誇らしげに報告するのび太に、無言で滂沱の涙を流すドラえもん。その表情は安堵に満ちている。『ドラえもん』全エピソード中、ベスト・オブ・ベストと呼ぶにふさわしい名シーンだ。

一方の「帰ってきたドラえもん」は、ドラえもんが未来に帰ったあと、部屋でアンニュイに佇むのび太のコマからはじまる。気晴らしに外へ出た折、ジャイアンに「ドラえもんに会った」と聞かされ、狂喜乱舞するのび太。貯金をはたいてどら焼きを買い込もうとする姿には、もうこの時点で涙を禁じ得ない。しかし、それはエイプリルフールの嘘だということが判明する。
怒ったのび太はドラえもんの置き土産である「ウソ800(エイトオーオー)」という薬を飲み、ジャイアンとスネ夫に仕返しする。飲めば言ったことが「嘘」になるという道具だ。しかしやっぱり心は晴れない。ドラえもんはもういないからだ。泣きながらのび太が言う。

「ドラえもんは帰ってこないんだから。もう、二度とあえないんだから」

そう言って勉強部屋のドアを開けると、なんとドラえもんがいる。「ウソ800」の効能によって、「二度とあえない」が「嘘」になったのだ。抱き合って喜ぶドラえもんとのび太。ほとんど恋人同士のように強い絆を感じさせるエピソードだ。

●“お姫様”はしずかではない

ここで、ひとつの問いを立てたい。果たしてのび太は、ドラえもんとしずかちゃん、どちらのほうが大事なのだろうか?
一応、しずかちゃんはクラスのマドンナであり、のび太が惚れている結婚相手だ。しかし、『ドラえもん』の短編・長編いずれの作品を見ても、ドラえもんとのび太の鉄の絆は、しずかちゃんへの恋心を何万光年もリードしている。『エヴァ』のシンジはアスカをズリネタにして射精していたが(『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』、1997年)、アスカを異性として意識しながらも、それとは比べ物にならないほど強い絆でカヲルと結びついているのと同じだ。

前述の通り、ホモソーは「女人禁制」とワンセット。当然ミソジニー(女性嫌悪)もつきものだが、その香りを想起させるエピソードが、「ションボリ、ドラえもん」(てんコミ24巻)である。
ケンカが絶えないドラえもんとのび太を見かねた未来の世界のセワシ(のび太の孫の孫)が、のび太の世話役をドラえもんの妹・ドラミと交代してはどうかと提案、ドラミを現代に送り込む。ドラミはドラえもんより格段に優秀なので、のび太へのアシストは完璧。ドラえもんが出す道具はのび太を一時的に助けるだけのその場しのぎなものだが、ドラミの出す道具は違う。のび太を育て成長させる道具ばかりなのだ。公平に見て、ドラえもんよりドラミのほうが、保護者・教育者としての能力は高い。
ゆえにドラえもん自身、自分の能力不足を認めざるをえない。のび太のためを思うなら、自分が身を引くべきではないかと悩むドラえもん。まるで彼氏の社会的成功のために身を引こうとする、地元の腐れ縁の彼女のようではないか。
しかし、「交代」の提案を聞いたのび太は、「いやだ!! ぜったいに帰さない!!」と泣きながらドラえもんにすがりつく。どこぞの純愛ドラマかと錯覚するほどドラマティックなエンディングだが、ここでドラミの介入する余地は、みじめなほどに皆無だ。あれだけいい仕事をしたのに、ドラミはのび太に選ばれない。ドラミがどんなに優秀でも、どんなに性格が良くても、のび太と親密なバディ関係を結ぶことはできない。それを象徴するエピソードである。
「小学館BOOK」「小学生ブック」では、ドラえもんが登場しないパラレルワールド的な『ドラミちゃん』という作品が掲載されていた。ここには比較の対象であるドラえもんがいないにもかかわらず、のび太とドラミの関係は、のび太とドラえもんの関係ほど熱くない。むしろ淡白である。「男の子同士」の関係性と同じものを、「男の子と女の子」が構築することはできないのだ。

ホモソー的な文脈で『ドラえもん』を精査した場合、大長編ドラえもんは格好の考察対象であろう。
『ドラえもん』のヒロインはしずかちゃんだが、大長編は物語のクライマックスで「“お姫様”たるしずかちゃんを救うことで感動を誘う」構造にはなっていない。子供向けマンガの、年に1度のスペシャルエピソードにおいて、未来のフィアンセを“お姫様役”にすることはむしろ自然なはずだが、しずかちゃんに“お姫様”の役割が与えられることはないのだ。
では誰が“お姫様”なのかいえば、実はドラえもんである。大長編ドラえもんにおいて、「レギュラーキャラクターの誰かが危機に陥り、それを救出することで感動が発生する」プロット構造である場合、被救出者の役割はほぼドラえもんに割り振られる。その時の“白馬に乗った王子様”は無論、のび太だ。
大長編『のび太と雲の王国』(1991〜92年連載、92年劇場公開)では、電撃に打たれて壊れたドラえもんが文字通り「狂って」しまうが、のび太は優しくドラえもんの手を引き、世話をする。保護者―非保護者の役割が逆になるのだ。しかもこの時、ジャイアン、スネ夫、しずかはいない。邪魔する者のないふたりきりの旅によって、誰も割って入ることのできない、のびドラの濃いつながりが描かれる。
『のび太とブリキの迷宮(ラビリンス)』(1992〜93年連載、93年劇場公開)では、作中のかなり長い時間にわたり、のび太とドラえもんが離ればなれになる。そのため、のび太とドラえもんによる“ラブストーリー”の色彩が非常に濃い仕上がりになっている。

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