宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2018.05.18
  • 宇野常寛

宇野常寛『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』第四回 吉本隆明と母性の情報社会(1)【金曜日配信】

本誌編集長・宇野常寛による連載『汎イメージ論 中間のものたちと秩序なきピースのゆくえ』。今回からは、「戦後最大の思想家」吉本隆明の代表作「共同幻想論」と、FacebookやLINE、TwitterといったSNSに象徴される現在の情報化社会との接点を探ります。 (初出:『小説トリッパー』 2018 春号 2018年 3/25 号 )

1  なぜいま「吉本隆明」か

さて、連載二回分を費やした猪子寿之と彼の率いるチームラボの作品批評を通して、グローバル/情報社会下におけるボーダレス化のイメージについて考えてきた。猪子の試みは、ボーダレス化の二重の敗北——多文化主義(政治的アプローチ)とカリフォルニアン・イデオロギー(経済的アプローチ)——を経た上での文化的アプローチ(デジタルアート)だと位置づけることができる。では、ここで猪子が示した「境界のない世界」が私たちのこの世界に仮に現出するとしたらいかなるかたちを取るのだろうか。続く第四回ではその可能性について考えてみたい。

ジョン・ハンケがゲームで、猪子寿之がアートで、それぞれ人類社会の来るべきビジョンとして提示する「境界のない世界」は、ある部分で決定的に異なっていながらも確実に根底にあるものを共有している。ここではハンケと猪子、二人の仕事とその問題意識を参照した上で、ある思想家の仕事を再読したい。そしてそうすることで、彼らの考える「境界のない世界」がいかに社会に実現し得るのか、し得ないのか、し得るとしたらその条件は何かについて検証することができる。私はそう考えている。なぜならばその人物は「結果的に」だが八〇年代の時点で、いや、捉え方によってはまだマルクス主義が健在だった六〇年代の時点で、既に今日の情報社会のかたちを予見し、そして不幸にもその行き詰まりをもその後の思想的展開で体現していたからだ。
吉本隆明——中心的な読者であった団塊世代が社会の表舞台から退場するとともに、今や忘れ去られようとしている「戦後最大の思想家」である。
七〇年代以降、吉本隆明は過去の思想家と位置づけられていたが、二一世紀の今日こそ再読されるべきである。それが本連載での私の立場だ。もちろん、本書は吉本隆明を聖典として崇める立場を取らない。むしろ批判的な立場からその継承を試みる。そもそも吉本の文章は読解不能な悪文で、論理構成も破綻しているものが多い。吉本の今日における読解には論理的で明快な「現代語訳」と、複数のテキストを組み合わせて理論的な記述不足を類推して補う作業が必要だろう。
だが吉本の欠陥や誤りを指摘することとその天才性に敬意を払うことは矛盾しない。あくまで重要なのは一九六〇年代にあたかも今日の情報社会を予見するようなテキストが書かれていたという事実であり、さらには一九八〇年代に吉本が展開した消費社会論(『ハイ・イメージ論』)の着想(とその行き詰まり)から、私たちは大きなものを持ち帰ることができるという事実だ。その圧倒的な天才性とそれゆえの決定的な誤りから私たちが学ぶべきものとは何か。今回はその再読の指針を示すことになるのだが、その前に私の考える吉本の天才性を卑近な例で示しておこう。

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