宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2016.04.06
  • ドラえもん,ドラがたり――10年代ドラえもん論,稲田豊史

『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第9回 大長編考・後編 リメイク問題とオリジナル問題

今朝は稲田豊史さんの連載『ドラがたり』をお届けします。藤子Fの死後も、大人の事情から製作され続けた大長編ドラえもん。目を覆いたくなるオリジナル脚本の駄作が連なる中、唯一輝きを放った『のび太のひみつ道具博物館(ミュージアム)』に秘められた、ドラえもんらしからぬ批評性とは?


▼執筆者プロフィール
稲田豊史(いなだ・とよし)
編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『押井言論 2012-2015』(編集)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。
http://inadatoyoshi.com

●新ドラの迷走・リメイク問題

声優リニューアル後のドラえもん(新ドラ)まわりでよく話題にのぼるのが、映画版のリメイク問題である。前回(第8回参照)でも触れたが、2006年以降の映画ドラえもんは、11本中6本が過去作品のセルフリメイクだ。

2006年『のび太の恐竜2006』
*『のび太の恐竜』(80)のリメイク

2007年『のび太の新魔界大冒険  〜7人の魔法使い〜』
*『のび太の魔界大冒険』(84)のリメイク

2008年『のび太と緑の巨人伝』
*オリジナル。原案はてんコミ26巻「森は生きている」とてんコミ33巻「さらばキー坊」

2009年『新・のび太の宇宙開拓史』
*『のび太の宇宙開拓史』(81)のリメイク

2010年『のび太の人魚大海戦』
*オリジナル。原案はてんコミ41巻「深夜の町は海の底」

2011年『新・のび太と鉄人兵団  〜はばたけ 天使たち〜』
*『のび太と鉄人兵団』(86)のリメイク

2012年『のび太と奇跡の島  〜アニマル アドベンチャー〜』
*オリジナル。原案はてんコミ17巻「モアよ、ドードーよ、永遠に」

2013年『のび太のひみつ道具博物館(ミュージアム)』
*オリジナル

2014年『新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜』
*『のび太の大魔境』(82)のリメイク

2015年『のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)』
*オリジナル

2016年『新・のび太の日本誕生』
*『のび太の日本誕生』(89)のリメイク

筆者周囲の古参ドラファンや原作原理主義者の意見を総合すると、「リメイクは(藤子・F・不二雄の原作があるから)許容範囲、オリジナルは総じてダメ」という評判が大勢を占める。まずはそれらを検証しよう。

リメイクのストーリーはたしかにF謹製、かつ現在までのところ傑作率の高い80年代作品を引っ張ってきているので、さすがにプロットの完成度は高い。また、どのリメイク作も多少の改変・シーン追加が施されており、中にはそれが作品性を大きく引き上げているケースもある。
『のび太の恐竜2006』では、恐竜・ピー助の卵をかえそうと懸命なのび太にパパが温かいまなざしを送るシーンを加えることで、のび太に芽生える擬似父性を類推的に表現している。『新・のび太と鉄人兵団  〜はばたけ天使たち〜』では、破壊兵器である巨大ロボット・ジュドー(のび太はザンダクロスと命名)の頭脳に「ピッポ」という人格を持たせてのび太との友情を描くことで、原作や旧映画版以上にヒューマニズム色・政治的反戦色が強まった。
いずれも、原作の魅力を損なわないまま、むしろ原作の内包するテーマを正しく増幅した巧みな肉付け、名アレンジだ。まるでFの魂が憑依しているかのような「加筆修正」に、ファンは惜しみない喝采を贈った。

しかし、いっぽうで看過できないリメイクの“改悪”もある。たとえば『のび太の新魔界大冒険  〜7人の魔法使い〜』。同作にはゲストヒロイン美夜子の母(原作では登場しない)が登場する。彼女はかつて幼い美夜子の病気を治そうと悪魔と契約し、その代償としてメデューサになってしまった……というエピソードが新劇場版で追加されたのだ。
しかし『魔界大冒険』の原作はSFファンタジーとしてプロットの完成度が図抜けて高いので、あえて母娘ドラマを挿入することには蛇足感が否めない。また、「敵の正体が実は身内だった」という設定を追加したことで、物語の焦点がボケてしまった。

いずれにせよ、なぜ制作陣はリメイクに頼るのだろうか。理由は大きくふたつ考えられる。
ひとつは興行的な狙いだ。目下のところリメイク元は80年代の作品に集中しており、これは現在小さな子を持つ親世代である30〜40代が幼少期に見た作品群と一致する。彼らの興味を惹ければ、親子連れで劇場に足を運んでくれる確率は飛躍的に高まる、という目算である。
もうひとつはクリエイティブ上の問題だ。当然ながら、1996年の藤子・F・不二雄逝去後は、大長編の原作が存在しない。そのため、大山のぶ代版の旧映画ドラでも、1998年から2004年まで合計7本のオリジナル長編が作られたが、後述するように総じて不評だった。
そのため新ドラでは、安定した物語クオリティが担保されているかつての名作を、概ね隔年でリメイクすることによって、シリーズ全体の平均点を維持する方策に出た。同時に、オリジナル作品の制作期間にゆとりをもたせ、質の向上にも務めた。
これは、あえて厳しい言い方をするなら、オリジナルのネタ枯渇をごまかすための、苦し紛れの延命措置だ。もちろん、制作に時間をかけたからといってオリジナルが傑作に仕上がるとは限らないが。

ただ、シリーズを36作も重ねれば、ネタ枯渇になるのも致し方ない。
たとえば冒険の舞台だ。映画ドラは基本的に、のび太たちによるフロンティア(新天地)での冒険を主軸に物語が展開するため、回を重ねれば重ねるほど、新鮮味のある舞台は使い尽くされていく。
宇宙や他惑星はもっとも多く採用される舞台であり、ジャングル・孤島・海といった地球上の秘境、大昔の地球や未来世界なども複数作品に登場する。なんらかの道具で創造した仮想世界やパラレルワールド、絵本や夢の中が舞台の場合もある。のび太たちは、ありとあらゆる場所を冒険してしまったため、フロンティアが残されていないのだ。
敵をどう設定するかも難しい問題だ。映画ドラは、その多くが「悪い支配者に苦しめられている人たちを、のび太らが救う」という物語構造を取っているが、「悪い支配者」のバリエーションにも限界がある。他惑星や他国の独裁者や侵略者は定番の敵だが、さすがにマンネリ感が否めない。
まれに明確な悪意のない集団が便宜的に敵として設定されることはあるものの、敵を殲滅するカタルシスが得られないため、ストーリーメイクの難易度は高い。Fの原作がある『のび太と竜の騎士』(87年公開)『のび太の創世日記』(95年公開)はこれに該当するが、完成度の面でいまいちぱっとしないのが実情である。

●Fは長編が苦手?

実は、当のF謹製の大長編原作であっても、F晩年の作品は明らかに精細を欠いてくる。
『のび太と夢幻三剣士』(94年公開)は陳腐なRPGのような設定と、まさかの夢オチ系ラストに腰くだけ必至。F自身も「失敗作」と公言して憚らない。
『のび太の創世日記』(95年公開)は、パラレルワールドの地球をのび太たちが見守るという珍しい物語構造をとっているが、過去にFが描いたSF短編の縮小再生産を、さらに薄めて長編化したような内容だ。
『のび太と銀河超特急(エクスプレス)』(96年公開)は、矮小な箱庭アミューズメントに終始しており、こちらにも『のび太の宇宙開拓史』(81)の縮小再生産臭が漂う。
絶筆作の『のび太のねじ巻き都市(シティー)冒険記』(97年公開)に至っては、物語はおろか、敵も世界観も驚くほど魅力に欠けている。Fの遺した原案と一部のネームを基に藤子プロが仕上げた作品であることから、絵の稚拙さは否めず、完読することすら辛い作品だ。
Fの筆による大長編の筆が冴えていたのは「神7(セブン)」(第8回参照)をはじめとする初期の数年だ。90年代以降は凡作が続き、晩年は駄作を連発してしまった。その理由は、Fが本来は短編を得手とする作家であり、長編は苦手だったからである。

前回(第8回)でも触れたが、シンエイ動画の元社長・楠部三吉郎氏がFに第一作目の長編『のび太の恐竜』の執筆を依頼した際も、Fは「僕は短編作家です」と言って一旦は断っている。その後、発表済みの短編『のび太の恐竜』を膨らませて描いては、という楠部の提案に乗るかたちで、Fは執筆を承諾した。
たしかにFの著作を見渡すと、その大半はギャグ・コメディもしくは着想一発の「アイデアSF」で占められ、それらはほぼすべて短編もしくは一話完結の連作短編だ。単行本1冊以上にわたるストーリーものの中長編は、大長編ドラえもんを除くと、足塚不二雄名義の『UTOPIA 最後の世界大戦』(53)、『海の王子』(59〜61)といった初期作品や、晩年の自伝的中編『未来の想い出』(91)など、ごく少数に限られる。
F自身にも、自分が短編を得手とする作家だという自負はあったようで、公に以下のような言葉も残している。

手塚治虫先生の『火の鳥』のような大長編を、一度でいいから描けたらと思わないわけではありません。しかしいまの段階では、それは一つの夢として、もっと将来のことにしまっておきたいと思います。(『藤子不二雄ランド「SF少年短編」第3巻』中央公論社、1989年)

これは没する7年前、89年の言葉である。キャリア40年にも達しようというベテラン大作家が、「一つの夢として」「もっと将来のことにしまっておきたい」とは、これいかに。Fは長編に対する苦手意識を、生涯にわたって抱き続けていたに違いない。

●大長編にみる「いただき」の限界

ただ、もし本当にFは長編が不得手なのだとすると、初期大長編ドラの傑作ぶりは一体どういうことなのか。これについては、藤子不二雄賞(小学館新人コミック大賞・児童漫画部門の通称)におけるFのコメントにヒントがある。Fは若いマンガ家の卵たちに「いただき」という創作手法を推奨した。

「いただき」というものは、なんの手がかりもなくアイディアを創りだすのではなく、過去に見た映画やまんが、あるいは読んだ小説でも、何か感銘を受けたものがあれば、自分の作品世界に再現することです。(中略)古い素材を組み立てなおして、まったく装いも新たな新作を創りだす。それが、僕が言う「いただき」ということなのです。(第19回「藤子不二雄賞」における藤子・F・不二雄のコメント/1990年)

同じコメント内でFは、『のび太の恐竜』は『野生のエルザ』からの「いただき」であることも明言した。
『野生のエルザ』はジョイ・アダムソンによるノンフィクションで、アフリカのサバンナでライオンの赤ちゃんを引き取った夫婦が、ライオンの幸せのために野生に帰すという話。1966年には映画にもなった。Fはこれを『のび太の恐竜』の元ネタだと公言しており、自分の創作スタンスの基本が「いただき」であることも、同時に示唆したのだ。
無論「いただき」は盗作行為ではない。しかし創作活動において「いただき」をデフォルトとするには、相応の質・量のネタ元が必要であり、ネタ元が枯渇すれば、生み出される作品はやせ細っていく。Fが晩年に発表した大長編ドラえもんが精彩を欠いていたのは、「いただき」のネタ元枯渇が原因ではないだろうか。
大長編ドラの初期に傑作が多いのは、それまでFの人生のなかで培ってきた膨大なネタ元アーカイブのなかから、大長編に向いたものを、ベストオブベストとして選りすぐることができたからではなかったか。ちなみに2作目の『のび太の宇宙開拓史』は、Fお気に入りの西部劇である映画『シェーン』(53)や『ブリガドーン』(54)がヒントになっている――と自ら語っている。

もちろん、Fという作家は「いただき」だけで作品を描いているわけでは、断じてない。Fが得手とする短編は、居合い斬りのように鋭く鮮やかなアイデア一発、発想一発の破壊力に満ちている。『ドラえもん』の基本テーゼである、「現実にはありえない道具がもし存在したら、という思考実験」はこれそのもの。「いただき」による既存ストーリーの翻案的創作ではなく、「誰もが知っている既存の断片と断片を組み合わせる」ダイナミズムだ。
「既存の断片と断片を組み合わせる」は、Fの作家的資質のなかで、最も秀でたスキルであろう。短編作家は、既存要素の脳内アーカイブが多ければ多いほど、要素を自在に参照する引き出しのすべりが良ければ良いほど、組み合わせのセンスが卓越していればいるほど、優秀とされる。その点において、Fが超のつく優秀な短編作家であったのは間違いない。

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