宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2016.03.29
  • 中心をもたない、現象としてのゲームについて,井上明人

「ゲームとは何か」をめぐる交わらない答えたち (井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第4回)

今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第4回です。「ゲーム」と「遊び」。幼少期から慣れ親しむ人間にとって最も身近な行為でありながら、厳密な定義はほどんと不可能という、あまりに不可思議なこれらの現象を前にして、私たちは何を語りうるのかについて、改めて考えます。


■「遊び」と「ゲーム」をどう区分するか?

「真剣にゲームをしているのに、教師が率先してふざけて遊ぶとは何事か」
と、校長から叱られた先生がいた。これは筆者が中学生のときの体育祭直後のことだ。
何があったのかというと、生徒によるリレーではなく担任教師による学年対抗リレーという催しがあった。正直なところ、誰もこれといって本気にしているものではないが、毎年恒例のイベントだった。
普段、偉そうな顔をしている担任教師が必死で走るというのを見せるという意味では悪いイベントではないのだが、他の学年の教師のキャラがいまひとつよくわからないので、つまらないとも面白いともいえない微妙なイベントなのだが、このリレーのバトンが英語教師のM先生にバトンが渡ったところで、M先生がやってくれた。
M先生は最初のうち、普通に校庭の楕円トラックに沿って走っていたのだが、20Mほどしたところで、トラックの楕円形を無視して、ゴールまで最短距離で走り始めた。他の教師たちと、校長は目を丸くしたが、生徒たちには大いにウけて、微妙なイベントが一転して盛り上がった。

図1:M先生の疾走ルート
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だが、校長先生はこれをよしとせず、後日に呼びつけてこの教師を叱りつけ、ゲームの場でふざけて遊ぶのはよくない、という趣旨のことを説いたわけだ。
M先生の行為が現代日本の学校教育の枠内で肯定されるべきことかどうか、ということはさておくことにする。本連載は、「ゲーム」という現象がどういったものかを論じるものなので、本題に入りたいと思うが、この校長先生の怒りは、「遊び」と「ゲーム」と日本語で名指される二つの領域の性質を端的に表している。
校長先生本人も意識はしていないだろうが「ゲーム」をしているのに「遊ぶな」といっている。すなわち、校長先生はここでは、「ゲーム」と「遊び」という概念を別々のものとして区別している、ということだ。
「ゲーム」をめぐる現象をとらえようとするとき、「ゲーム/遊び」あるいは「Game/Play」という区別の付け方はしばしば最初に問題とされやすい区別の一つだ。この区別の付け方には、さまざまなバリエーションがあるが、一つのメジャーな立場にはこのようなものがある。楽しまれる行為のうち「遊び」や「Play」を、必ずしも組織化されない様々な行為全般のことを指し、そのうちの一部が「ゲーム」と呼ばれ、組織化されルールなどの定まった野球やチェスなどのことを指すという仕方がある。
たとえば、幼児の遊びなどに特徴的だが、家の中にある様々なものをひっくり返して遊んだり、ティッシュをドバドバと箱から引っ張ることに楽しみを覚えたり、とらえどころがない。幼児はおそらく、自分のまだ知らない世界のあらゆるものに触れるということ自体を楽しんでいるのだろうと思われるが、その行為にはあまりはっきりとした形式はない。
これが成長するにつれて、好まれる遊びの傾向に変化が生まれてくる。表1は4歳から10歳にかけての子どもの好きな遊びがどう変化していくかを調べたものだ。まず、ティッシュ箱をひっくり返すような遊びをしていた幼児は少し育つと、ままごとや、人形遊びといった行為の虚構性を理解しなければ、そもそも遊ぶことができないような遊び(表1の薄い灰色部分)を好みはじめる。さらに、小学校に入るかどうかぐらいの5歳~7歳ぐらいの年齢の子どもになると、野球やサッカー、トランプやデジタルゲームなど、かなり複雑なルールをもち、組織化された遊び(表1の濃い灰色部分)を遊びはじめる。バットでボールを打つという行為は、それ自体では完結した遊びではなく、攻守・点数・ヒット・ホームランなど、その遊び全体を構成する一連の行為の一部として理解される必要がある。

表1:子どもの遊びの変化
質問文:今、好きな「遊び」はどれですか。いくつでも教えて下さい。
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こういった、楽しみをめぐる行動が組織化されていくプロセスをもとに、行為がまだ十分に秩序だった複雑な構造をもっていないものを「遊び」と呼び、虚構性や行為の多層性といった状態を備えたものを「ゲーム」と呼ぶという用法がある。
このような区別がなされるとき、論者によって多少のバラつきはあるが、基本的には、行為の最初にまず「遊び」ありきであるという図式があり、そのうちの一部が徐々に秩序形成されていく、という図式になっている。とくに発達心理学などの領域で「遊び」が論じられる場合、実際の子どもの行動変容にあわせて、こういった議論構造になるのは、ごく自然な観察といってもよいだろう[1]。ゲームとされる行為にはしばしば、「これは虚構の行為である」現実感覚の階層性の理解や、各々の行為間のネットワークが複合的に組み合わせて理解することが要請され、確かにそれは幼児の遊びよりも、いくつかの意味で複雑だ。ティッシュ箱をひっくり返す幼児は、ゲームを経験することができない。ゲームを遊ぶとためには一定の「成熟」を必要とする側面がある。
ただ、このように遊びの複雑に発達した過程としてのみ「ゲーム」を捉えると、いくつかの問題が出てくる。たとえば、さきほどの校長先生の「ゲーム」と「遊び」を区別するお叱りを理解することができなくなる。
M先生の暴走は、実際のところ、幼児の遊びよりも、かなり複雑なことをやっている。①まず、幼児には理解できない、リレーのルールを(当たり前だが)M先生は十分に理解している。②その上で、リレーのルールを破り、周囲から期待されている行動をあえて裏切ることで、生徒の笑いをとりにいっている。
これは単に複雑さの程度問題だけでいえば、幼児の遊びとは全く異質なものだ。だが、これを校長先生はゲームとは違う「遊び」として名指した。ここでは、遊びがゲームの発達前の段階としてみなされているのではなく、遊びを「ルールからの逸脱行動」としてみなすというやり方である。一方でゲームは「ルールに沿った行為」としてみなされている。この校長先生の区分は、理解可能なものだと言っていいだろう。これはそこまで難しい話ではない。
少し話が難しくなるのはここからだ。

■ 複数の「遊び」と「ゲーム」区分は両立するか?

さて、さきほど、子どもの発達過程のようなものを想定したときに、さまざまな無秩序な行為が好まれるところから、次第に複雑な行為間のネットワークをもつような行為へと移行していくという複雑化・秩序化のプロセスをもって、遊びをゲームの前段階としてみなすという観察はごくまっとうなものだと述べた。
一方で、遊びはゲームの前段階ではなく、ルールからの逸脱か、それに沿った行為かという区分もまた理解可能なものだと述べた。
仮に前者を「複雑/単純分類」、後者を「遵守/逸脱分類」と名付けることにしよう。この複雑/単純分類と、遵守/逸脱分類はともに理解可能な分類ではあるが、この二つの分類はそれぞれに対応する術語として、「ゲーム/遊び」という言葉を選んでしまう場合、これはちょっと理解しがたいケースが出てきてしまう。すなおに、この二つの分類のペアから、次の四つのケースを導出することができる。
A)     複雑なルールを遵守すること
B)     複雑なかたちで逸脱を果たすこと
C)     単純なルールを遵守すること
D)     単純なかたちで逸脱を果たすこと
「A)複雑なルールを遵守すること」は、野球やチェスの標準的なプレイを想定すればよいだろう。これはどちらの分類を採用していても、文句なしに「ゲーム」らしい行為だと言ってよさそうだ。また「D)単純なかたちで逸脱を果たすこと」は、たとえば先ほどから述べている赤子がティッシュをひっくり返すことや、食卓でスープに汚れた手を突っ込んで遊ぶような行為はこれにあたるだろう。
問題は、B)と、C)だ。「B)複雑なかたちで逸脱」を果たしたのは、さきほど例に挙げたM先生の暴走のようなものだ。これは、逸脱という意味では間違いなく「遊び」だが、赤子のような行為の単純さがあるかといえば、その点ではこの行為は「遊び」ではない。M先生は、うまくタイミングを見て生徒の笑いをとりにいくという高度な目標を掲げそれを見事に達成するための行為をなしとげた。その意味では、<行為-目標>という階層性をもった「ゲーム」を試みている。M先生の行為は、ある意味でゲームであり、ある意味で遊びである。
「C)単純なルールを遵守すること」は、たとえば、「握っているボールを床に落とせ」というルールを遵守した場合に、ボールの挙動を楽しむことなどがこれにあたるかもしれない。これは誰かが自分の手を抑えこんでいるとか、そういった制約がないのであれば、行為自体が単純であるのみならず、目的の達成にかかわる困難がない。行為することと目的の達成が完全にイコールになるようなことだ。これは逸脱をしていないという意味では、「遊び」ではない。しかし、行為に一定の複雑性が成立していないという意味では「ゲーム」とも呼びがたいような、「楽しさ」の経験だとしか言いようがない。
つまり、複雑/単純分類と、遵守/逸脱分類と名付けたこの二つの分類方式は重なるところもあるが、常に両立可能な分類方式ではない、ということだ。ゲームや遊びといったものを対象とした議論として、それぞれの分類はその分類自体では一定の整合性のもつことができるが分類間には矛盾が生じる。
これは、遊び/ゲームをめぐる分類でなくても、遊びやゲームをめぐる単純な二分法がしばしば抱えがちな問題だ。カイヨワであれば、ルドゥスとパイディアという分類が似たような分類となっている。[2]

 

▼執筆者プロフィール
井上明人(いのうえ・あきと)
1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。

 

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