文学を拡張せよ:濱野智史さんによる書評

宇野常寛が本書で論じているのは、おおよそ次のようなことである。冷戦終結後、経済のグローバル化と情報ネットワークの浸透が進んだいま、かつてオーウェルが『1984年』で描いた「ビッグ・ブラザー」の問題――イデオロギー装置としての国民国家――は完全に退潮した。それにかわって台頭しているのは、民主主義/資本主義社会の日常に巣食う、無数に蠢く匿名的な悪としての「リトル・ピープル」である。宇野の見立てによれば、村上春樹は『1Q84』の中でこの問題を描こうとしたが、それは結局のところ「父」をめぐる【家族小説/ファミリーロマンス】の水準に留まり、全く別の『平成「仮面ライダー」』シリーズこそが、この「リトル・ピープル」の存在に肉薄する文学的想像力を展開していたというのである。

こうした宇野の見立ては、村上春樹と仮面ライダーというあまりにもかけ離れた二つを組み合わせているために、実に壮大奔放な試みに見える。しかし、その屋台骨的な構造だけを取り出せば、「大きな物語の崩壊」(リオタール)を唱えるポストモダン論の枠組みを、ストレートに踏襲したものとなっている。じじつ「貨幣と情報のグローバルなネットワークにおいてリトル・ピープルが跋扈する」という宇野の主張は、ネグリ=ハートの『〈帝国〉』と『マルチチュード』をめぐる議論と、形式的にはほぼ同型にあるといってよい。

それゆえに――ポストモダン論があらゆる方面から「モダンは終わってなぞいない」と叩かれたのと同様の理由で――、宇野の議論に反発する者も少なくないはずだ。例えば、原発問題一つ取ってみればよい。宇野の見立てが気に食わぬ者はおそらく、原発問題のどこに「ビッグ・ブラザー」の終わりがあるのか、と責め立てるであろう。たとえば『「フクシマ」論』の開沼博が指摘するように、原発が特定の地域に集中し経済的に依存していく「原子力ムラ」問題の背景には、地域(周縁)が国家(中央)に自発的に服従させられていく、「国内植民地支配」とでもいうべきメカニズムが存在する。これこそまさに近代的な「資本 = ネーション = ステート」(柄谷行人)の強固さを厳然と証明するものであり、よって「ビッグ・ブラザーは死んだ」という宇野の主張は実にのんきなサブカルチャー論に過ぎない。そんな声が聞こえてきそうである。

しかし、それは早とちりが過ぎるというものだ。宇野は決して国民国家の存在を否定しているわけでも、モダンは完全に終わったなどと主張しているわけでもない。あくまで宇野が批判しているのは、国民国家というシステムを「ビッグ・ブラザー=偉大な父」として疑似人格的に捉える、いまも論壇に巣食うオールドタイプの思考法である。たとえば震災後、政治家のリーダーシップ不足を嘆くクリシェ的批判はますます盛んに聞かれるようになったが、極限すれば「父さえしっかりすれば日本も近代社会として成熟する」というこの手の議論は、原発問題に対し全くの無力である。
そのことを理解するためには、むしろ宇野が依拠する宮台真司(が依拠するルーマン)の「社会システム理論」の枠組みを借りたほうが見通しがよくなる。社会システム理論の見方では、近代以降の高度な複雑分化を遂げた社会システムにおいては、法・経済・学問といった各種サブシステムが極めて閉鎖的で自律的なコミュニケーションに特化することで複雑性が縮減され、社会秩序が維持されている。その構図は原発問題においても同様である。原発の稼働停止は法的に合法なのか否か。原発は経済的に効率的なのか否か。放射能の影響は科学的に正しいのか否か。各サブシステムは、ただひたすら自らの関心範囲に閉じたコミュニケーションの再生産に徹する。そこには社会全体を見渡す超越的視点などは存在しえないが、社会システム理論はそれでこそ正常状態であるとみなす。

宇野の考えに従えば、こうした社会システムの複雑性がもたらす不透明さに耐えられない弱き人々こそが、「偉大な父」という疑似超越者を欲するに過ぎない。それは麻原のようなニセモノの父を招き寄せるカルトの所業となんら変わらない。むしろ私達は原発という「大きなもの」の問題を、「ビッグ・ブラザー」という父のイメージを通してではなく、豊かな消費社会のシステムに内在する「リトル・ピープル」の問題として捉えなければならない。そう宇野は宣告しているのである。

さらに宇野の仕事が白眉なのは、ただ「ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ」とスローガンを掲げるだけではなく、非人格的なシステムが張り巡らされた「リトル・ピープル」の時代における、新たな批評の場所を切り拓いた点にある。その一例として宇野が挙げた「拡張現実」としてのニコニコ動画やAKB48については、むしろ先ほど挙げた社会システム理論の延長線上で読み解くことで、よりその「可能性の中心」を的確に掴むことができる。

たとえばニコニコ動画。そのコミュニケーション・システムとしての特異性は、複雑性を縮減するのではなく拡張する点にある。法システムであれば合法/不法、経済システムであれば支払い/不払いという二値コードに絞り込むことで複雑性を縮減するのに対し、ニコニコ動画の「タグ」のアーキテクチャは、むしろn次状にコミュニケーションの複雑性を拡張させることで、ありそうもなかったはずの要素間の結合を引き起こし、爆発的な創造力を生み出す。

あるいはAKB48。「選抜総選挙」のように、それは経済(市場)と政治(選挙)という異質なシステムをハイブリッドにつなぐことで、アイドルとファンの関係性をオープンに直結させ、「開かれたポピュリズム」とでもいうべき熱狂状態を生み出している。そのカーニヴァル的民主主義のあり方は、マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』で指摘した代表民主制の原理的問題――代理-表象しきれない民意がシニシズムに陥り、ファシストの台頭を招いてしまう――を払拭する可能性を秘めているのだ。

かつてマルクスは「人間の解剖は猿の解剖に役立つ」といったが、ニコニコ動画やAKB48の解剖は、来るべき社会の解剖に役立つ。なぜならそれは既存の社会システムから「半歩ずれた」あるいは「ハイブリッド」な存在であり、それゆえにこそ現実を〈批判〉する手立てとなりうるからだ。「ビッグ・ブラザー」のように社会システムの全体性を見渡すことはできなくとも、「リトル・ピープル」のように個々のシステムに潜り込み、別様でもありうるはずの世界を垣間見せること。そんな宇野が切り拓いてみせた批評のあり方とは、かつて文学が持ち得た「異化」の力を受け継ぎ、〈拡張〉することに他ならないのである。

(初出:「新潮」2011年11月号)