宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

Serial

  • 2019.02.27

“kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝 第二章 ミニ四駆(5)「マグナムに叫ぶようにアレクサを呼ぶ」

デザイナーの池田明季哉さんによる連載『“kakkoii”の誕生ーー世紀末ボーイズトイ列伝』。自動運転車は、なぜ「カッコいいもの」として社会に受け入れられないのか。マシンを手動で操作したい欲望と、AIによる自動運転技術。未来の自動車が抱える矛盾と、それを乗り越える想像力を、ミニ四駆に宿る物語性から考えます。

「かっこいい」自動運転車は可能か?

工業技術によって身体を拡張することで、主体と社会を短絡させる「乗り物」──その代表たる自動車こそが、20世紀における成熟の象徴として、男性的な美学の器として機能してきたことを、ミニ四駆のデザインを通じて確認してきた。

だとすれば、情報化した21世紀における理想の男性的な成熟のイメージを考える上で、自動車の情報的なアップデートである自動運転車、および完全自動運転の分割的実装であるところの各種の運転支援技術について論じることは、避けて通れないだろう。

自動運転技術は、それがごく近い将来かやや遠い未来であるかに議論はあるものの、やがてレベル5と呼ばれる完全自動運転を実現させることはほぼ確実と見られている。しかし自動運転車は、20世紀的な自動車の進化の形として期待されているにもかかわらず、美学を宿す器として、少なくとも「手動運転車」であるところの20世紀的な自動車と同等に「かっこいい」存在としては認められていない節がある。

これはある意味では当然のことといえなくもない。たとえば20世紀初頭において、個人が所有できる乗り物の主流は馬車であった。この時代に登場した新しい乗り物であるところの自動車に対しても、同様の戸惑いと抵抗があったことは想像に難くない。手動運転車が20世紀の100年をかけて蓄積した美学に比肩するためには、ごく素朴に考えて21世紀の100年という厚みが必要になるはずだ。

しかし同時に、20世紀初頭における「未来の乗り物」としての自動車への期待と美学が、その後100年の自動車文化を育んだこともまた確かだ。ゆえに21世紀初頭の本連載では、来るべき自動運転車にどのようなかっこよさを見出すことができるかを考えてみたい。

もちろん、そのヒントになるのは、20世紀末にG.I.ジョーから変身サイボーグとトランスフォーマーを経てミニ四駆に宿った「魂を持った乗り物」という想像力だ。

文化的に相容れない「自動車」と「自動運転」

そもそもなぜ、自動運転車は20世紀的な自動車文化の文脈において「かっこいい」と思われていないのだろうか。そこには単純な嗜好の保守性やテクノフォビア以上の、自動車文化の美学に深く関わる問題がある。

自動車の美学の中心に主体の拡張があると考えるとき、自動車が「直接操作できる」という感覚は極めて重要だ。たとえば20世紀でも、いわゆるATとMTを比較したとき、一般的に言ってMTの方が格が高い──「かっこいい」と考えられているのは、こうした自動車の位置づけを背景にしているといっていいだろう。

こうした美学の上では、情報技術による運転支援技術は、たとえ機能として事故を防ぐ効果があるとしても、むしろ邪魔なものになってしまう。あらゆる判断を正確に行う完璧な主体であることを確認することでナルシシズムを記述する自動車文化と、ドライバーが不完全なことを前提に支援を行う自動運転技術は、美学の上で相性が悪いのだ。

叫んでも加速しないから、ミニ四駆をやめる

手動運転自動車の美学と自動運転技術、そしてミニ四駆の関係をわかりやすくするために、少しだけ個人的なエピソードを紹介したい。


この記事の続きは、有料でこちらからお読みいただけます!
ニコニコで読む >>
noteで読む >>

関連記事・動画