野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?(後編)|中野慧 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

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  • 2022.03.25

野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?(後編)|中野慧

ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の‌‌第‌20回「野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?」(後編)をお届けします。
日本野球の「ポップカルチャー」化に貢献した押川春浪。日本SFの祖としても知られる彼の生い立ちと、デビュー作『海底軍艦』について分析します。
(前編はこちら

中野慧 文化系のための野球入門
第20回 野球文化を創った冒険SF小説家・押川春浪は、なぜデビュー作で「大日本帝国万歳」を唱えたのか?

反逆児・押川春浪(方存)、そのヤンキー漫画顔負けの青春時代

押川春浪は本名を押川方存(おしかわ・まさあり)という。以下、SF作家の横田順彌氏のいくつかの著作から、春浪の少年・青年時代について述べていこう。
方存はすでに述べたように、日本におけるキリスト教教育の先駆者である押川方義(おしかわ・まさよし)の長男として1876年に愛媛県松山市で生まれた。父・方義は松山藩の武士の家に生まれたが維新後にいち早く横浜で英語を学び、そのときにキリスト教に出会って帰依した[3]。やがて日本各地で布教を行うようになり、方存もそれに付いて各地を転々としたが、のちに仙台の地に定住することになる。このときに、後に野球殿堂入りすることになる弟の清も生まれている。
方存は小学校を卒業後に単身上京し、1889年に明治学院に入学し、野球に出会って野球部に入部する。1890年には一高と明治学院との試合でかのインブリー事件が起こっているので、方存が事件を目撃している可能性は高い。だが方存は野球にのめり込むあまり2年続けて落第したため、父・方義によって仙台に強制送還させられた。したがって、その後の東京での一高野球の展開は目撃していないだろう。
仙台に戻ってきた方存は、父・方義が校長を務める東北学院に編入させられた。ここでも仲間とともに野球部を結成しているが、明治学院のときのように思うようにメンバーが集まらなかったようである。
父は仙台に戻すことで方存の改心を期待していたのだろうが、方存はその期待を裏切るべく学校の西洋人教師や上級生と大喧嘩したり、教師の飼い犬を殺して授業中に煮て食ったりした。大人や上級生相手ならまだしも弱い犬を殺すとはアニマルウェルフェアの観点から大いに問題があるが、当時のバンカラ学生にとって「犬を食う」というのは実力誇示の伝統的行為だったらしい[4]。可哀想な犬の冥福を祈るほかない。
さらに方存は、授業中に嫌いなクラスメイトの自慢の長髪に火を付けて燃やす「頭髪焼討」の蛮行に出た。ここに至って父・方義もかばいきれなくなり、あえなく方存は退学処分となったのであった。ただ単に蛮行で退学になるという以上に、「校長の息子」という、ちょっとしたことであれば軽い処分で済まされるであろう立場でありながら、それでも退学になるというのは相当な不良少年であったと考えられる。
その後の方存は各地の学校を転々としたのち、1895年にようやく東京専門学校(のちの早稲田大学)に腰を落ち着けることとなった。これは父・方義が大隈重信と親しかったことによる。だが方存の蛮行は止まず、交番に馬で乗り付けて交番を破壊する、ストリートで出会ったゴロツキたちと「道を譲る、譲らない」で喧嘩となり12,3人を相手に大立ち回りを演じて袋叩きにされ入院する、などのヤンキー漫画顔負けの青春時代を送った。ほかにも「押入れでウンコをした」というバンカラ活動も伝えられている。
方存は、東京専門学校時代にも野球部を創部していた。ただ、これはあくまでも同好会的なものであり、のちの早稲田野球部に直接つながるものではなかった。だが東北学院に続いて、東京専門学校でも野球部を創部したというのは、単なるワルにとどまらないアントレプレナーシップ(起業家精神)の持ち主であったということだろう。

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