宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2016.01.26
  • 宇川直宏,落合陽一,魔法使いの研究室

落合陽一✕宇川直宏対談「コミュニケーションとしての映像――ハロウィンが映画産業の売上規模に達した時代に」(落合陽一『魔法使いの研究室』)

今朝のメルマガは、メディアアーティスト・落合陽一さんの連載「魔法使いの研究室」です。昨年11月27日にナレッジキャピタル主催のINTERNATIONALSTUDENT CREATIVE AWARD 2015で行われた、宇川直宏さんと落合陽一さんの対談の模様をお届けします。映像というメディアの耐用年数が尽きようとしている今、新たな表現の可能性を、映像表現の最先端にいる2人が徹底的に語り合いました。


◎構成:稲葉ほたて

■コミュニケーションとしての映像

宇川直宏(以下、宇川):落合さんがやられている研究は、映像における物語の抑圧やカタルシスからも解放された「映像の覚醒」をテーマにしている側面があると思います。

落合陽一(以下、落合):映像を暗い部屋で見る行為は、いわば俺たちの身体性を殺して、画面に集中させる装置によって成立しているんですね。それに、もう俺たちは慣れなくなりだしている気がするんですよ。

宇川:なるほどね。劇場に着席して、不特定多数と映像を共有する概念自体が前世紀のものだと言い切るわけだ(笑)。

落合:ええ、極めて前世紀的だと思います。だって、今後はコミュニケーション手段としての映像や、より新しいコンピューターグラフィックスの表現がどんどん生まれてくるわけで、全員で同じものを見るスタイルそのものが古いですよね。

宇川:探求している世界は、スペクタクルの拡張ですかね。今日、僕と落合くんは先ほどまで軽くご飯を食べながら打ち合わせをしていたんです。そのときに、映画史の始まりは、はたしてエジソンがキネトスコープを発表したところにあるのか?という話をしていました。
つまり、ファンタスマゴリアまで遡る必要はないが、ソーマトロープやゾーエトロープは蔑ろにしてはいけないだろうと(笑)。まずエジソンは映写機を発明したのだけど、それは穴を覗き込んで映像を体験するピープショーだった。人類の最初の映画体験はそういうものだったのだけど、リュミエール兄弟が1894年にキネトスコープを改良してシネマトグラフを作り、映像をスクリーンに投影して初めて、現在の映像共有の原点が生まれたんですね。

落合:だって、エジソンのやったことは、要はゲーセンのスペースインベーダーですもん。彼は喫茶店の端っこにキネトスコープを置いて、お金を入れると見られるようにしたんです。
でも、シネマトグラフは違う。あそこで、みんなで共有することがお金に変わったんですよ。映画館という暗闇で全員が同じものを共有できるのが映画の価値で、ヒトラーもそれがすごい優秀だと考えたわけです。つまり、これを使えば我々は全員に単一のプロパガンダを受け取らせられる、と。

宇川:まさにレニ・リーフェンシュタールの『意思の勝利』だよね。

落合:ベルリン・オリンピックの映像にしても、普通にすごいじゃないですか。
20世紀の間、映画はそういう誰かの意思を伝えるメディアとして、ずっと流行ってきたんです。だけど、現代の我々はコミュニケーションのスタイルとしては映像の発想を超えて行くんじゃないか、というのが俺の見立てです。宇川さんのドミューンなんかも、まさにそうですよね。

宇川:ありがとう。ドミューンはスタジオと、ビューワーの視聴覚環境と、タイムラインの3つのリアルタイムな現場があって、体感軸が立体的に遍在していますからね。時を経て、テレビの時代が到来したときに、映画畑の方々は複雑な想いに駆られました。小津安二郎が「テレビを見ればバカになる」と発言したり、大島渚が「映像は夢見る時代から覚醒の時代を迎えた」と発言したりしていました。彼は暗闇から解放されて、日の光の下に晒された映像をそう表した訳です。そう考えれば、現在は「二度目の覚醒を迎えた時代」で、QuickTime発明以降、個人がYouTubeでアーカイヴ共有、ライヴストリーミングでリアルタイム共有を果たせるようになり、お茶の間から解放された映像が、更にパーソナルな領域に入り込んできている印象がありますね。そして今日はもう「三度目の覚醒」について語り合いたいと考えています。

落合:人間とテクノロジーが混ざり合ったとき、我々のコミュニケーションは一方向性じゃなくなってきたわけですよ。押井監督は「全ての映画はアニメになる」と言っていますが、その指摘も正しいですよね。実際、キャメロンの『アバター』みたいな作品がウケてるわけですから。

宇川:でも、『アバター』も劇場という空間に投影されていて、結局はシネマトグラフに依存していますね。しかし、オンデマンドで『アバター』を観るという行為についてどう考えるか。また、それ以前にYouTubeという動画共有のサービスが生まれたことによって、クラウド時代には映像におけるレアという価値観が崩壊しましたよね。それまでのレアという価値観は、貴重な過去の映像を個人がフィルムやホームビデオやLDやDVDで所有することで、そのこと自体が自己定義と密接な関係にあることを意味しました。大袈裟に言えばアイデンティティーの一部であった訳ですよ。しかし、共有の時代に完全にパラダイムシフトして映像を「所有している」ことの価値がそれほど重要な意味を持たなくなってしまった。例えば放送禁止となり永久欠番となった『ウルトラセブン』の第12話や、『怪奇大作戦』の第24話を所有していなくとも、誰かが勝手にYouTubeで共有してくれている、ということです(笑)。つまり宮崎勤の存在意義が現世にはもう無い(笑)。

落合:それは、まさにコミュニケーションとしての映像ですよね。

宇川:まさに僕らがやっていることです。そこで、落合さんは何を研究され、映像をどう進化させようとしているのかを今日は聞きたいわけですよ。

■「ピクセルがピクシーになる」

落合:じゃあスライドを切り替えてくれますか?
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ワールドテクノロジーアワードという賞の、受賞スピーチで使ったプレゼンです。まず、俺は「ピクセルがピクシーになる」と言ってるんです。つまり、画面上の光の粒を超えて、マルチメディアを超えて、いかに現実にピクシーを実装していくか――俺の中では、コンピュータを使って物を浮かせたり、操ったりするのは、その発想の延長線上にあるんです。

宇川:三次元制御で、音響浮揚させる映像は、YouTubeで見て気狂いしそうになりましたよ。

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https://www.youtube.com/watch?v=odJxJRAxdFU

落合:結局、スマホにオーディオとビジュアルコミュニケーションが詰まってしまったわけじゃないですか。そうなると、スクリーンを見ながら、スマホやタブレットを使って、コミュニケーションをするのが当たり前になる。学術論文としては、マーク・ワイザーという人が1991年にそういう話を書いてるんですね。コミュニケーションの技術革新はこの24年で随分と成熟してしまったわけで、研究者としてはさらに先の時代、2050年くらいを見ていく必要があるんです。
そのときに、なぜマルチメディアに問題があるのかですね。例えば、映像ってHDの映像で60Hzの時間スピードだし、オーディオは22.1Hzの時間周波数なんですよ。でも、これって人間の可聴域が22000Hz程度でしかないだとかの、いわば感覚器官に囚われた制約から来ているものです。

宇川:なるほどね、これ以上高画質,高フレームレートの映像を鑑賞しても、もはや体感できないと。

落合:耳にしても、やはり一定以上の高周波は聞こえないですからね。
でも、そうやって感覚器官による制約をかけることで、俺たちは可能性を潰しているんじゃないかと思うんです。そこで俺は、100万倍高いワットオーダーで光を出したり、もっと高解像度で出力したり、2Dではなく3Dで画面合成をしたりして、どうなるかを考えているんです。

宇川:でも、それって実験の段階では、自分の感覚器官の体感値以上のレゾリューションを確認しないといけなくならない?

落合:そうなんですが、実はその体感値以上の表現は別にそのまま感覚器に入ってくるわけじゃないんです。例えば、強力なエネルギーのレーザーを使えば、空中に絵が描けたりするんですよ。映像なんてせいぜいミリ秒単位ですけど、こっちは30フェムトセカンド秒で描く(笑)。

宇川:え!? マジで!?1000兆分の1秒の世界(笑)

落合:とんでもない解像度ですよ。そのくらいの制御になると、初めて空中にプラズマ映像みたいなものが綺麗に描けてくるんです。これなんて空気がイオン化していて、触るとインタラクションがあります。物を浮かべていた波も40KHzだから人間の耳に聞こえる範囲を超えている。
こういう高周波の波で、いかに画面の外で画面みたいなことが出来るかを本気で考えているんですね。

宇川:なるほどね。この空間的奥行きの中にスクリーンがある発想なんですね。

落合:もっと言ってしまうと、空間そのものに映像を代替する表現をいかに作るかですね。
そうなったとき、我々は日常体験として映像みたいなファンタジーを作って、世界に没入できるようになるし、日常から我々の主観を切り離す必要がなくなるんじゃないかと思います。それはつまり、コミュニケーションスタイルの中に新たな総合対話性の関係を持ち込むことじゃないかと思いますね。
85年のパラダイムはバーチャルリアリティ(VR)で、91年のパラダイムはオーグメントリアリティ(AR)だ思うんです。でも、それって映像の中では色々なものがいじれたけど、リアルをいじれなかった時代の話でしかないんですね。もしリアルをそのままいじれたら、バーチャルとリアルの二分は必要なくなると思うんです。

宇川:なるほどね。実空間が拡張されてリアリティとして体験できれば、それはバーチャルでもなんでもないですからね。つまり、もはや「映像」なんて言われなくなるでしょうね、だから落合さんは「映像の世紀は終わった」というアンチテーゼを投げかけている。

落合:まあ、別に写実画の全盛期が終わっても、写実画は存在したわけです。ただ、ジャンルとしてはまさに映像も登場してしまったわけじゃないですか。そういう意味で、従来通りの「文化としての映像」と、YouTubeのような「コミュニケーションツールとしての映像」がそろそろ分離し始める気がしますね。

宇川:要は、生活環境の中へフォログラフィックな投影システムが組み込まれていくわけですかね。インターネット使い放題のマンションを間借りする感覚のように、日常時間軸の中でオーグメントリアリティ使い放題(笑)のような現実にシフトしていき、それが常態になっていく……。

落合:そうすると、物質と映像の区別はやがてつかなくなりますよね。それが人間のコミュニケーションや生活を変えていく中で、新しい文法の表現が生まれるんじゃないかという気がします。俺はこういうことをずっとやっていて、専門的にはフォログラフィーというんですね。三次元的に光や音や色んなものを合成するジャンルになります。


▼プロフィール
宇川直宏(うかわ なおひろ)
1968年香川県生まれ。映像作家 / グラフィックデザイナー / VJ / 文筆家 / 京都造形芸術大学教授 / そして「現在美術家」……幅広く極めて多岐に渡る活動を行う全方位的アーティスト。既成のファインアートと大衆文化の枠組みを抹消し、現在の日本にあって最も自由な表現活動を行っている。2010年3月に突如個人で立ち上げたライブストリーミングスタジオ兼チャンネル「DOMMUNE」は、開局と同時に記録的なビューアー数をたたき出し、国内外で話題を呼び続ける。『文化庁メディア芸術祭』審査委員(2013~2015年)。『アルスエレクトロニカ』サウンドアート部門審査委員(2015年)。また2015年12月。高松市が主催する『高松メディアアート祭』ではゼネラルディレクター、キュレーター、審査委員長の三役を務め、その独自の審美眼に基づいた概念構築がシーンを震撼させた。DOMMUNEhttp://www.dommune.com

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