第4章 変容するグローバルとローカル ──「デジタル発酵」化の進展|落合陽一
メディアアーティスト・工学者である落合陽一さんの新たなコンセプト「マタギドライヴ」をめぐる新著に向けた連載、第4章の公開です。
アメリカ発のグローバルプラットフォームの環境が世界を覆い尽くしていく中で、固有の地域性に即したヴァナキュラーな文化は、どのような条件で繁茂していくのか。「デジタル発酵」というキーワードから、現在進行形で発生中の新たなローカリティの可能性を、功罪両面を踏まえながら検討します。
落合陽一 マタギドライヴ
第4章 文変容するグローバルとローカル ──「デジタル発酵」化の進展
グローバルプラットフォームからローカルクリエーションへ
前章では、デジタルネイチャー下におけるフィジカルとデジタルを股にかけたグローバルなプラットフォームの変容について、文明や地政学といったマクロな視点から、マタギドライヴの発生条件を概観しました。それにともない、地理や伝統に規定された文化や都市のあり方といった、ローカルな環境条件の側もまた、大きく変化しつつあります。
本章では、そのようなグローバルとローカルの相互浸透的な変化の帰結として起きてくる「デジタル発酵」の現象に力点を置きながら、私たちにとって、身近な次元でのライフスタイル環境の変化が、どんなふうに変わっていくのかを展望したいと思います。
以前、台湾のIT担当大臣を務めるオードリー・タンさんと対談したときに興味深かったのが、「我々のような東アジアのローカルな文化圏の住人がグローバルなプラットフォームを使う意味はあるのだろうか」という話題になったことでした。つまり、2020年代初頭現在の私たちは、たとえばSNSひとつ取っても、TwitterやFacebook、Instagramなどアメリカ発のサービスを使っているわけですが、それによって必ずしもグローバルな世界と接続しているわけでは決してありません。
確かにインスタでは北米セレブの使い方に感化されて投稿内容が派手にはなってくるという傾向はあるものの、日本人なら日本語圏で、台湾人なら繁体字圏の範囲でしかその内容が共有されることは実はあまり多くありません。フォローしているアカウントもフォロワーも、その国や地域のローカルな言語圏内に閉ざされていることがほとんどです。私も含め一部の人々は活発なグローバルネットワークに接続していることもありますが、全体比率で見ればユーザーは少ない数にとどまっています。
確かに、ネットサービスの黎明期から普及期にかけては、ネットワーク外部性によって収穫逓増の原理が作用するので、優位に立ったサービスのスケールメリットが雪だるま式に膨らみ、やがて支配的なプラットフォームを形成するというのが当然の流れでした。
しかし、それがグローバルなインフラとして行き渡り、さらにオープンソース化やAPI化を通じて技術的にどこでも誰にでもコピー可能になるという段階に突入したときには、「なぜわざわざ海外製のエコシステムを日常的にも使う必要があるのか?」という本質的な問いに直面します。
実際、多くの人々のユーザー体験に則して言えば、地元の友人と話題を共有するようなローカルなコミュニケーションを取るためにInstagramやTwitterを使う必要はほとんどありません。さらに言えば、たかだか数百回くらいの再生のための動画をYouTubeで発表する必要も、本質的にはないと言えるでしょう。
もちろん、ローカルな内輪受けのコンテンツとグローバルなヒットコンテンツが同一のサービス上に並列されることで、なだらかなロングテールを形成してきたことは、確かにプラットフォームや市場の形成過程においては予測不可能性や多様性につながり、大きな意味がありました。しかし、ここまでグローバルプラットフォームが肥大化し、ロングテールのヘッドとテールが二極化してしまった状況の中で、9割の人々がローカルな共有しか求めていないのに、ローカルなネタを万に一つの(それよりも少ないかもしれませんが)グローバルヒットを狙うためのプラットフォームで発信することに、はたしてどれだけの意味があるのか。
現在の世界の映画産業が、かつてほどアメリカ発のハリウッド映画の一強状態ではないのと同様に、やがては各地のローカルな文脈に根ざしたクリエイティビティを反映した何かに置き換わっていくことは充分にありえると思います。現在の我々が使うITサービスのほとんどは、ハリウッド映画どころではないほどの支配率でグローバルプラットフォーマーに占有され、ローカルが食いつくされているようにも見えますが、中長期的には、その先の状態に移行していくことが考えられるのではないでしょうか。
デジタルネイチャー下でローカリティを開花させる「デジタル発酵」
そういったグローバルなデジタルプラットフォームが浸透した環境で、再びローカルに根ざした文脈性が優勢になっていく現象を、序章でも論じたように、私は「デジタル発酵」と呼んでいます。
その要件を改めて定義するなら、デジタル環境の普及によって利用可能なツールやサービスをめぐる限界費用が限りなくゼロに近づいた条件において、誰もがデジタルの上でクリエーションしやすくなり、その享受もローカルな範囲で行われていくことで、まるで地域性と密着して発展した発酵製品のように、独自の地産地消型のサービスやプロダクトの文化が生まれていくという状態をイメージしています。
その背景には、元々はアメリカ西海岸のローカリティから発生したグローバルプラットフォームがかつてない規模で浸透し、異なる文化を持つ各国の言語や法的・慣習的な制度といったローカルな防護壁にぶつかることで、次第にミスマッチな部分が大きくなってきたという事情が挙げられます。そこでは、いわゆるカリフォルニアンイデオロギーへの反動として、同じプラットフォームを利用するユーザー間の経済階層的・リテラシー的な縦軸の格差に基づくポストトランプ型の分断が噴出してきているのに加えて、さらに地理的・歴史的な多様性に基づく横軸の問題が顕在化してきているのだと言えるでしょう。
そうした個々のローカルのニーズや問題に対応するためには、もはや単一のサービスの運用では対応できず、最終的にはサービスを分けていくしかありません。統一プラットフォームの現地法人を立ててローカライズするというような昔のモデルでは間に合わず、ローカルのブランドで別にサービスを立てないといけなくなったところ、他のベンチャー企業が次々とそれを担っている、という状況が生じつつあるわけです。
もちろん、そうしたきめ細かなローカリティに対応した新たなサービスを、今後もカリフォルニアの人たちがスケールメリットを活かして生み出し続けていく可能性は依然として強いですが、これからの大きなシナリオとしては、おそらくローカルのものはローカルで作られていくようになるでしょう。そうした動きが、21世紀初頭に隆盛したカリフォルニアンイデオロギーに対する、非常に強力なオルタナティブになりえると思います。
つまり、同じものを全員に作らせようとするのではなく、全員で違うものを使っていくというような世界が成立するだろうというのが、デジタル発酵のシナリオです。
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