第十三章 人間――悪・可塑性・人種|福嶋亮大(後編) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2024.06.20
  • 福嶋亮大

第十三章 人間――悪・可塑性・人種|福嶋亮大(後編)

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第十三章 人間――悪・可塑性・人種|福嶋亮大(後編)

6、可塑性を利用する芸術家――オーウェルの『一九八四年』

架空の全体主義国家オセアニアを舞台とする『一九八四年』では、戦時下の党を率いるビッグ・ブラザーが、テレスクリーンを用いて社会の全体をくまなく監視している。真理省記録局に勤務するウィンストン・スミスは、過去の文書の改竄に従事しているが、やがて魅力的な女性ジュリアと出会ったことをきっかけに党の禁を破る。彼女との性的関係だけが、この息苦しい社会での唯一の避難所となるのだ。しかし、それは本人があらかじめ予想していたように、破局を迎える。逮捕されたウィンストンは、オブライエンの狡猾な拷問によって、心から党への愛を誓う人間に作り変えられてゆく。

もとより、このような常時監視システムにどれほどリアリティがあるかは、検討の余地がある。例えば、アンソニー・バージェスはオーウェルを批評した『一九八五年』のなかで、アメリカがベトナム戦争を遂行しながら、同時にそれを娯楽的なテレビ番組として国民に消費させたことを皮肉っぽく指摘し、オーウェルの社会像の限界を言い当てている[16]。実際、物質的窮乏を国民に強いる架空のオセアニアと異なり、戦後の現実の先進国は、むしろ豊かさや娯楽を統治の手段とした。この点に限っては、同じイギリス人作家オルダス・ハックスリーの『すばらしき新世界』(一九三二年)の描いた管理社会――人間を生物的次元で巧妙にコントロールする快適なユートピア――のほうが、『一九八四年』よりも明らかに予見的であった。

ただ、『一九八四年』にはもう一つの重要なテーマがある。それは、思考および言語の可塑性に関わる問題である。オーウェルが描いたのは、人間を単一のイデオロギーに盲目的に従わせる単純なメカニズムではない。ウィンストンやオブライエンを含めて、オセアニアの人間たちは二重思考(doublethink)の実践者として描かれる。それは党の支配のもとでは民主主義はないと知りながら、党が民主主義の擁護者であると信じる思考様式である。嘘をつくことと信じることを、何ら矛盾なく両立させるアイロニーが浸透したとき、ひとびとは自ら進んで思考を柔軟に調整し、全体主義社会に適応するようになる。

オーウェルはこのアイロニカルな思考様式を、「ニュースピーク」と呼ばれる新しいタイプの人工言語と連携させた。言語が単純化されて、繊細なニュアンスを失えば、思考を社会にあわせて調整し、過去の出来事を都合よく訂正することも容易になるだろう。ウィンストンはまさにそのことに強い恐怖を覚えている。「もし党が過去に手を突っ込み、この出来事でもあの出来事でも、それは実際には起こっていないと言えるのだとしたら、それこそ、単なる拷問や死以上に恐ろしいことではなかろうか」(五五頁)。「歴史は止まってしまったんだ。果てしなく続く現在の他には何も存在しない。そしてその現在のなかでは党が常に正しいんだ」(二三九頁)。

こうして、思考も言語もまさにその柔軟な可塑性ゆえに、党への抵抗力を奪われる。ウィンストンを執拗に虐待するオブライエンは、この仕組みを正しく理解していた。彼の振る舞いは、ある意味ではきわめて洗練されている。かつてスペイン人の征服者が多数のインディオを「破壊」したとすれば、オブライエンは一人の人間のもつ多数の思考を入念に滅ぼした後、別の形態に作り変えるのだ。彼がウィンストンら囚人を閉じ込め、徹底的に洗脳する密室は、まるでゾラ的な実験室のグロテスクなヴァージョンのように見える。そして、このような思考の実験的なジェノサイドが可能なのは、オブライエンが人間の可塑性を熟知しているためである。

われわれが人生をすべてのレベルでコントロールしているのだよ、ウィンストン。君は人間性と呼ばれるような何かが存在し、それがわれわれのやることに憤慨して、われわれに敵対するだろうと思っている。だがわれわれが人間性を作っているのだ。人間というのは金属と同じで、打てばありとあらゆるかたちに変形できる。(四一七‐八頁)

哲学者のリチャード・ローティは『一九八四年』を分析するなかで、オブライエンに「オーウェルの青年時代におけるイギリス知識人の典型的な特徴のすべて」が与えられていると見なし、そこにオーウェルの世代の知的アイドルであったジョージ・バーナード・ショーの面影を認めている。洗練された知識人オブライエンは、その美的な趣味と知的な能力を最大限に発揮して、犯罪者を矯正する卓越した拷問官になった。ローティによれば、オブライエンが知的でありつつ残酷であることは、何ら不思議なことではない。なぜなら「知的な天分――知性、判断力、他への関心、想像力、美への趣味――は性的な本能と同じように可塑的で柔軟なもの」であり「人間の手と同じように、多種多様な形をとりうる」からである[17]。そのことを最も明瞭に自覚していたのがオブライエンなのだ。

そもそも、『一九八四年』は最初から、人間の感情を可塑的なもの、つまり抽象的で無軌道なものとして描いていた。テレスクリーンから定期的に流れる「二分間憎悪」という奇妙なイベント――「人民の敵」とされるエマニュエル・ゴールドスタインへの糾弾が二分間続けられる――のもたらす群衆の熱狂のなかで、ウィンストンの怒りの感情の向かう先は「鉛管工の使うガスバーナーの炎のように」めまぐるしく転換する。

ウィンストンにしても、ある瞬間の怒りはゴールドスタインには少しも向かわず、それどころか、〈ビッグ・ブラザー〉や党や警察に向けられる。そして、そうしたときにはスクリーンに映っている孤独で皆の嘲笑の的である異端者、虚偽の世界における真実と正気の唯一の守護者へと気持ちが傾くのである。ところがその次には、あっという間にまわりの人間と同化し、ゴールドスタインについて言われていることはすべて真実だと思えてくる。そうした瞬間には、彼が密かに抱いている〈ビッグ・ブラザー〉への嫌悪感は敬愛の念へと変化し、〈ビッグ・ブラザー〉は恐れを知らぬ無敵の擁護者として辺りを睥睨する存在であり、アジア人の大群に立ちはだかる巌のように思えてくる。(二六頁)

ここには、ドストエフスキーの登場人物を思わせる二日酔い的な混乱がある。ウィンストンはオブライエンに拷問される前に、すでに変わりやすい感情に支配されていた。「二分間憎悪」においては、ただ感情の激しいアップダウンだけがあり、怒りの矛先は瞬時に切り替えられる――しかも、このアドレス変更はほとんど当人の自覚なしに生じるのだ。この場面は架空の全体主義社会の描写にとどまらず、現実の大衆社会の集合的感情を絵解きしたものにも思える。怒りは群衆の連帯を支える。しかし、それは短時間のイベントに回収され、その怒りの軌道も簡単に変わるのである。

われわれはここで、オーウェルが『ガリヴァー旅行記』についての優れた批評家であったことを思い出そう(第十章参照)。スウィフトが人間の可塑性を強調したように、オーウェルもアイロニカルな二重思考と単純化されたニュースピークという装置のなかで、人間性がいかに変わりやすいかを示した。オブライエンは自らの思考を一切傷つけることなく、きわめて繊細なやり方で党のイデオロギーに順応する。そして、彼はまさにその同じ技術を用いて、ウィンストンの思考を計画的に訂正した。

オーウェルはもともと、原案では『一九八四年』を『ヨーロッパ最後の人間』と題していたが、この形容はウィンストン以上にオブライエンに当てはまるのではないか。オブライエンは知性的であることと残酷であることを、良心の呵責なく両立させる「最後の人間」(ニーチェの言う末人)である。ローティが言うように、人間の「知的な天分」はそれほどに「可塑的」なのであり、そしてこの可塑性を知り尽くした知識人こそが不正を遂行するのだ。このような暗いヴィジョンをもつ小説家にとって「人生にたいする純粋に美学的な態度」はもはやあり得ない。晩年のオーウェルが「政治による文学にたいする侵犯」を積極的に招き寄せようとしたのは、そのためである[18]。文学もまた、政治による介入を受け入れざるを得ないのだ。

7、可視的な透明人間――オーウェルからラルフ・エリスンへ

ところで、テレスクリーンという装置に象徴されるように、オーウェルは社会の全面的な可視化を想定していた。ウィンストンとオブライエンもまた、お互いの姿をしっかり視認している。そして、このあらゆる私的な秘密を視覚的にあばく透明社会のメカニズムが、思考や言語の管理とコントロールを徹底し、全体主義体制からの逃走を失敗に終わらせる。

しかし、『一九八四年』からまもなくして、一九五二年に刊行されたアメリカの黒人作家ラルフ・エリスンの『見えない人間』では、オーウェル的監視社会とは正反対の状況が描かれている。ウィンストンやジュリアが全面的な可視化にさらされていたとしたら、エリスンの捉えたアメリカ社会の黒人は、むしろ不可視(invisible)だと見なされる。『一九八四年』と『見えない人間』のこの興味深いコントラストは、アフリカ系アメリカ人がヨーロッパの白人とは異なる文学的課題を背負ってきたことを示唆している。

トマス・ピンチョンが『一九八四年』に関する評論で注目したように、オーウェルの描く近未来の国家ではすでに人種差別は撤廃されており、ユダヤ人や黒人、インディオにも入党の資格が与えられていた。ただ、ピンチョンによれば、この「ありそうもない人種的寛容」は、小説のリアリティをいくぶんか損なっている(四九八頁)。逆に、エリスンはアメリカの人種差別の存在を前提として、そこで生じる認識の偏向を問題にした。『見えない人間』の主人公のブルー(憂鬱)な黒人青年――その名は最後まで明かされない――は、その語りの冒頭から白人の「内的な眼」の歪みを批評する。

僕は見えない人間である。かといって、エドガー・アラン・ポーにつきまとった亡霊のたぐいではないし、ハリウッド映画に出てくる心霊体(エクトプラズム)でもない。実体を備えた人間だ。筋肉もあれば骨もあるし、繊維もあれば肉体もある。〔…〕人は、僕の近くに来ると、僕の周囲のものや彼ら自身を、あるいは彼らの想像の産物だけを――要するに、僕以外のものだけを見るんだ。(上・二九頁)

ルイ・アームストロングの歌(どうしておれはこんなに黒くて/こんなにブルーなのか)を聴き、マリファナを吸いながら、彼は「時間の裂け目」に滑り込む。「言いわけになるが、不可視性のせいで僕には人と少し違った時間の感覚があって、完全にリズムにのるというわけにはいかない。進みすぎる時もあれば、遅れすぎる時もある。気づかないほどの時間の速い流れではなく、僕には節目が、つまり時間がぴたりと止まったり先にサッと進んだりする瞬間が分かるのだ」(上・三五頁)。

ときに加速し、ときに遅延する主人公の語りは、人生の時間に麻薬的な抑揚を与えている。この不安定なアゴーギク(テンポの変動)のもとで、『見えない人間』は黒人青年の語る長大な「自伝」の様相を呈する。彼はもともと南部のアラバマ州の大学――ツタで覆われ、スイカズラやマグノリアの花の咲く美しい田園として描かれる――の学生であったが、北部出身の白人理事ノートンをうっかり旧奴隷地区、さらには戦争神経症を患った黒人帰還兵の集う酒場に案内するという失態のせいで、大学を追放され、ニューヨークに移住する。ここには大学の欺瞞的なあり方とともに、聖書の「楽園追放」が意識されているのは明らかだろう[19]。

その後、彼はちょうど拷問を受けるウィンストンのように、病院で電気ショックを与えられるという苦難を経て、『一九八四年』の地下抵抗組織「ブラザー同盟」ならぬ「ブラザーフッド同盟」――黒人の自由と能力を解放するために民衆運動の組織をめざすサークル――に参加し、演説の才能を発揮する。しかし、警官に不当に射殺された黒人を弁護したことで、彼とブラザーフッド同盟の関係は悪化してしまう。やがて白人警察に追われるうちにマンホールのなかの黒い石炭の山に転落した彼は、白人専用ビルの地下室の人間、つまり孤独な「見えない人間」となり、ドストエフスキーの『地下室の手記』の自意識過剰な主人公のように、自らの人生を回顧するノートを書くのである。

エリスンはニューヨークの無名の黒人青年を、いわば可視的な透明人間(The visible invisible)として描いた。黒人はその肌の色、つまり可視的・表面的な情報で差別される。そして、まさにそのことによって黒人の状況そのものが不可視化されるというのが、エリスンの提示した逆説であった。それは、全面的な可視化を恐怖と見なすオーウェルの『一九八四年』には欠けていた問題である。

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