宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2020.12.22

父としてのあだち充の「本音」と「優しさ」が描かれた『虹色とうがらし』(後編)| 碇本学

ライターの碇本学さんが、あだち充を通じて戦後日本の〈成熟〉の問題を掘り下げる連載「ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本の青春」。
前編に続き、異色作『虹色とうがらし』の読み解きです。ファンが期待する青春ラブコメ路線を離れ、あだち充がSF×時代劇の趣向を隠れ蓑に個人的な好みと思いを徹底的に追求した本作は、それ以前にも以後にもない「父」の視点が際立つ作品となりました。

碇本学 ユートピアの終焉──あだち充と戦後日本社会の青春
第15回 父としてのあだち充の「本音」と「優しさ」が描かれた『虹色とうがらし』(後編)

「SF×時代劇」の見かけに隠された「本音」

「ラフ」を描いたあとで、もうこの辺で好きなことやってもいいんじゃないかと。ウケようがウケまいが知ったことではないということで始めたのが、「虹色とうがらし」ですね。〔参考文献1〕

『虹色とうがらし』における「SF×時代劇」という世界観は、ほかのあだち充作品と比べるとやはり異色である。それは作品の冒頭からすでに現れていた。
それまでのあだち作品では、このキャラクターが主人公だということを示すようなシーンや、彼らの住んでいる家や町の風景のコマ、あるいは主要人物の関係性や特徴を示すものが冒頭に描かれているものが多かった。
あだち充作品の中でも、特に冒頭が素晴らしい『タッチ』を例に挙げてみよう。
冒頭2ページは達也たちの勉強部屋の全景を一コマで描いたほぼ同じものが四コマ続く構図がそれぞれのページで繰り返される。
1ページ目の一コマ目は全景のみ、二コマ目は左から学生服の南が歩いてくる、三コマ目は南がドアを開けて中に入っていく、四コマ目でドアが閉まり学生鞄を持った南が左方向へ歩いていく。
続く2ページ目も構図はほぼ同じ。一コマ目は屋根にスズメがいる以外は同じであり、二コマ目で右から学生服の和也が歩いてくる。三コマ目も南とほぼ同じであり、四コマ目も学生鞄を持った和也が部屋の左側へ歩いていくという同じ構図だった。
3ページ目では通学路での南と和也のやりとりが描かれ、二人の顔がやっとわかり、4ページ目でやっと主人公である達也が登場する。ここでは南と和也の最初の登場シーンと同じ勉強部屋を描いた四コマであるが、最初の一コマ目は二人とほぼ同じであり、違うとすればスズメが地面をチュンチュン歩いていることぐらいだ。二コマ目では服を着替えながらパンを口にくわえた達也が右からやってくる姿が描写されている。また、さきほどのスズメが達也に踏まれて「グェッ」と鳴いている。三コマ目では先の二人と比べて勢いよくドアを開ける達也、四コマ目ではパンをくわえて学生鞄を持った達也や部屋の左側に向かって走っていく。達也に踏まれたはずのスズメはなんとか復活して少し地上から飛び上がっている。そして、次の5ページ目では「明青学園中等部」の学校プレートが描かれて物語が動き始める。

連載1回目の最初のページ──見開きで8コマ使って同じ背景に主人公たちが出入りしている絵は、コピーじゃなくてちゃんと全部描いてますよ。今となっては気にならないかもしれないけど、まあ、当時の少年誌の1回目としてはあり得ないよね。でも、とりあえずなんか変なことをしたかったんでしょう。『サンデー』の新連載だからって肩に全然力が入ってない。我ながら呆れます。〔参考文献1〕

このように『タッチ』の冒頭で、達也と和也と南の三人それぞれのキャラクターをほとんどセリフもなく読者に伝えていけるのが、あだち充の作家としての魅力である。その凄みが感じられないぐらいに自然な描き方をしているため、読者はすぐに物語の世界へ入っていくことができるし、キャラクターの性格や関係性を違和感なく受け止めることができる。

対して『虹色とうがらし』は、それまでとは違うものを描くという意欲もあってか、連載前に高橋留美子に作品の構想を話していたという話もあり、あだち充作品と少し違う始まり方をしている。かなり力を入れて始めたと思しき初回はこんなものだった。
第1話の冒頭、作品の最初の1ページ丸々使った一コマでは宇宙に浮かんでいる地球が描かれ、「これは未来の話です。」とあり、次ページからはどんどんズームアップされて地上へ近づいていく。

次に空が描かれたコマには「オゾン層に穴はなく、大気も汚染されていない。」とあり、その次のコマでは「原生林もそのままに、川には魚が住み、海に油も浮いてない。」と続く。海の中を描いたコマでは「もちろんイニシャル入りの珊瑚礁など、どこにもみあたらない。」とある。

「あだち充先生より」みなさんこんにちは、あだちです。「ラフ」完結以来しばらくの間お休みをいただいていましたが、いよいよ今号より新連載スタートです。僕が時代劇に挑戦するとあって驚かれた方も多いと思いますが、僕自身は描きたいことがいっぱいあってドキドキしています。ご期待を!! 〔参考文献2〕

「少年サンデー」1990年4・5合併号に掲載された第1話のそのページの枠外には上記のような、あだちからのコメントが入っていた。「描きたいことがいっぱいあって」という部分から、意欲的にこの作品に臨もうとしている姿勢がわかる。
次のページには空から見た日本が描かれ、物語の舞台が日本だということがわかる。そこには「昔の地球? 最初にいったろ! これは未来の話だと。」とモノローグが続き、さらにズームアップされて、町の地図と立ち並ぶ長屋が描かれ、「この風景が昔の地球のある国のある時代に似ていたとしても、それはただの偶然だということなのである。」というモノローグが挿入されている。
ページが変わると立札に「時代考証に口出し無用 奉行所」とあり、そのコマに続けて、「念のためもう一度、──これは未来の話である」とくどいほどモノローグと世界観についての説明がされている。そのコマでお墓の前で手を合わせている主人公の七味と火消しの番頭夫妻がようやく現れる。そして、母を失ったことが明かされ、ある意味では孤児になった七味が江戸の「からくり長屋」に旅立っていくという流れになる。
あだち充は冒頭の3ページを使って舞台設定についてモノローグで説明をしている。基本的にあだち充はモノローグを使わない漫画家である。また、江戸時代にしか見えない物語の舞台が「昔の地球のある国のある時代」に似ていても偶然であり、「未来」の話とも言っている。これは後々何度か作中でも「モノローグ」として挿入されており、他の作品ではこのようなことはないので、かなり特異なものとして感じられる。

こんなふうに、『虹色とうがらし』は過剰なまでに「SF×時代劇」という題材の特異性を強調して始まった作品だった。確かに「SF×時代劇」という部分は際立っているので、「ラブコメ」を求める従来のあだち充読者には、あまり手を伸ばしにくいものになっていたのかもしれない。しかし、それは一種のカモフラージュでもあって、その下にはあだち充が考える「優しさ」がセリフとして表現したいという思惑が潜んでいた。

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