宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.12.25
  • 宇野常寛,小網代の森,岸由二

森と干潟の流域を歩く「小網代の森」探訪記・後編

今朝は、神奈川県の三浦半島にある「小網代の森」の保全活動を推進している進化生態学者・岸由二さんのインタビューの後編をお届けします。岸さんが「小網代の森」に関わるようになったきっかけ、さらには〈流域の思考〉によって培った、新しい自然環境保護の思想について、語ってもらいました。


 

▼プロフィール

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岸由二(きし・ゆうじ)
慶應義塾大学名誉教授。1947年東京生まれ。横浜市大、東京都立大大学院を経て、1976年より慶應義塾大学経済学部助手。助教授、教授を経て2013年退職。進化生態学専攻。流域思考の防災・環境保全型都市再生に関心をもち、三浦半島小網代や鶴見川流域で、NPOの代表として理論・実践活動を続けている。共訳書に『利己的な遺伝子』、著書に『流域地図のつくり方』など。

◎聞き手・構成:宇野常寛、PLANETS編集部

■ 「見る」ための地図と「住まう」ための地図

―― 僕はいま高田馬場に住んでいるんですが、距離的には雑司ヶ谷や目白台はすごく近いはずなんですけれど、体感的には渋谷や九段下の方が近く感じるんです。それは多分、電車のせいなんですが。そこにずっと違和感を感じていたんですよね。

 前回も話しましたが、宇野さんもほとんどすべての現代人も、普段はリアルな流域の地形に沿って暮らしているわけじゃなく、自分の住んでいる駅の沿線の住人として生きていますからね。ある意味で当然です。一方で、そこに違和感を感じる人と感じない人がいる。たとえばいま『ブラタモリ』のような番組が面白がられるのは、ちょっと違和感のある人があの番組にひっかかるからでしょう。ずっと都市に暮らしていても宇野さんのように違和感を持つ人はいるわけで、そんな人は自分の感覚の中に、前回お話ししたような、二次元のデカルト的な行政地図だけじゃなく、3次元の大地の凸凹マップが本人のマザーマップとして残っているのかもしれない。流域地図は、その基本単位なんですね。

―― 僕自身、東京に来る前は自転車移動が中心でした。それが東京に来てからというものすっかり電車移動ばかりになってしまって、そしてずっとこの街が好きになれないでいました。東京が少しは好きになれそうだな、と思えるようになったのは散歩を趣味にするようになってからですね。歩くことで、随分と街の見え方が変わったように思えます。

 原始の狩猟採集民のように徒歩か、あるいは自分で重力の負担を感じられる自転車での移動じゃないと、生物としての人間がリアルな地形を体感し、流域地図を自身のマザーマップとして獲得することは難しいでしょうね。自動車や電車や飛行機での移動は、地形をすっとばしてしまうから、あくまで景色としてしか外観を認識できない。

―― 僕も『ブラタモリ』は大好きな番組だし、あとは中沢新一さんの『アースダイバー』にも強い衝撃を受けたクチです。しかし、岸さんのおっしゃる〈流域の思考〉はそのふたつとはちょっとずれたところにあるように思えます。

 『アースダイバー』は、現代の行政地図ではなく、地形や歴史を踏まえた数千年前の縄文海進時代の地図を持って街を歩く、という視座を提供しました。その意味ではとても面白かったのですが、学術的なものではないので自然科学や防災のようなリアルな仕事にはいまひとつ使えない。

―― 『ブラタモリ』は江戸と東京、ふたつの時代の文脈の差異で、『アースダイバー』は土地の歴史と作家・中沢新一の文学的想像力との間の差異で世界の見え方を変える、という試みだと思います。対して、〈流域の思考〉を身につけるということは、実際にその土地に住み、資本主義の中で暮らしている僕らの生活の中で世界を見る目を二次元から三次元へと拡大する、というか三次元的に捉える目を取り戻すものに思えますね。

 『ブラタモリ』や『アースダイバー』の地図は、過去の歴史と戯れるためのもの、という側面がある。最近のタモリさんは、『ブラタモリ』の軽井沢の回で、とある峠が2つの川の分水嶺で、水を流すと片側は日本海に、片側は東京湾に流れる、なんてことをやったり、『タモリ倶楽部』で荒川上流の施設にある立体流域地図で遊んだりと、現代・未来の「流域」に明らかに興味を持ち始めているな、と思いますが。

いずれにせよ、日常の「住まう」ことの基礎に大地のリアルな凸凹地形に対する感覚をベースにした流域地図があって、その流域地図が個々人のマザーマップになる、というのが常識になるのには、まだまだ時間がかかるでしょう。だから、前回もお話ししたように、まずは「流域地図」を具体的な道具として、役立ちそうなところならどこででも使ってほしい。防災や街づくりや自然保全の仕事には絶大な効力を発揮するはず。

ここ小網代では、まさに流域のかたちを明確に認識し、流域のかたちに沿って、自然の維持や保全、管理を行っています。ここに水を流そう。ここに湿地をつくろう。ここに土砂を貯めよう。ここの川幅を広げよう。「流域思考」を持って、小網代の流域のかたちを具体的に利用して、作業しています。それを繰り返しているうちに、現場で作業しているひとの体の中に、哲学としての「流域思考」だってインストールされていく。

話は変わりますが、現代生態学には、1980代からアメリカで流行りだしたランドスケープエコロジー【1】という概念があります。空間的な構造を基礎においた生態学ですが、ここで使われている「ランドスケープ」(landscape)という言葉は、定義を辞書で引くと「風景画」「景観」と出てくる。つまりあくまで「見る」地形のことであって「住まう」地形のことじゃない。英語圏においては、”live in landscape”、ランドスケープの中に生きる、という文章は本来成立しないんですね。

にもかかわらず、欧米では「ランドスケープエコロジー」なんて概念を提唱し始めちゃった時期がある。この単語、本来おかしいわけです。エコロジー=生態学には、具体的なジオグラフィー(地形)がセットに決まっている。そこで生きものが暮らすわけですから。ランドスケープエコロジーじゃ、風景の中に生きものが暮らしていることになっちゃう。だから、専門家があわてて「要素生態系を複数繋げたものをランドスケープと呼ぶ」なんて馬鹿な定義をしちゃったりもした。

ところが、それから20〜30年経つと、自然保護や環境保全の領域から「ランドスケープ」という言葉の意味が変化してきた。現在では”live in landscape”という文章は、それらしい英語の本を読めばいくらでも登場するし、ネットで検索しても出てくる。出版物でも普通に使える表現になってきたんですね。

つまり、この30年くらいで、ランドスケープは「見る」と同時に「住まう」ものになったんです。こういった言語的転換を前提にすれば、この「小網代の森」こそが、ランドスケープエコロジーを具現化した場所とも言える。人々が見る場所でもあるし、生きものが住まう場所でもある。そしてもちろん、私たちNPOがまるでそこに住まうかのように、自然の世話をする場所でもあります。

■ あらゆる土地に現れる「流域」の構造

――岸さんは進化生態学者として大学でキャリアを積まれていますが、「小網代の森」の保全活動のように、大学とは関係のないところで、実践的な環境保護活動に関わり始めたきっかけは何だったのでしょうか?

 小網代は1960年代までは田んぼがあって、斜面は薪炭林として使われていた。おそらく何百年も稲作が営まれていた。河口の干潟では貝なんかをとっていた。地元の人たちにとっては、食をつくり、燃料を得る場所で、徹底的に人が手入れし、利用してきたところです。

それが、1964年の東京オリンピックの頃を境に、電気やガスが普及して、燃料をとる必要がなくなり、わざわざ稲作をやる人もいなくなった。一方、三浦半島は日本で最初のリゾート開発の場となりました。ヨットハーバーが葉山から油壺、小網代までできました。小網代にはリゾートマンションまで建った。そこで小網代の森も湿地も将来はリゾート開発をという声も聞かれるようになり、1970年の都市計画の線引きで市街化地域となった。でも、こんな深い谷に、地権者は誰も家を建てなかったんですね。その間、小網代の薪炭林は明るい広葉樹林の林になり、水田は深い湿地にかわっていきました。そして80年代に入ると具体的なゴルフ場建設を含む大規模な開発計画が立ち上がったんですね。

83年、慶応大学の教員仲間が小網代の近所に住んでいてこの森を偶然見つけ、「おい岸、三浦半島に原生林があるぞ」と連絡してきたのがきっかけです。翌年、実際に小網代に足を運んだら、原生林じゃないけど、もっともっと貴重な場所、ということが直感的にわかった。山のてっぺんから河口の干潟までがまるごと守られている。流域生態系の保全に理想的な環境だ、と。

ゴルフ計画を含む総合的な開発計画(三戸・小網代開発)が発表されたのは翌年の1985年。よし、流域思考の方法にそって、あくまで都市計画への代案提示という線で、小網代の谷の保全をめざそうと、運動(ポラーノ村運動)に参加したのです。それから全力で小網代通いをはじめ、自然の調査もすすめました。

1987年には、小網代の中央の谷を前面保全することを基本の要素として開発計画全体をみなおそうと呼びかける「小網代の森の未来への提案」という記念碑的な冊子を出版し、同時に、小網代ファンをふやすため、またアカテガニと一緒に森をまもる運動の戦略書として『いのちあつまれ小網代』という著書を出版しました。

その後、激動の紆余曲折はありながら、1995年には神奈川県が小網代の谷の全面保全の方針を明示するにいたり、開発主体だった企業も賛同して、三戸・小網代開発は、70haの小網代流域全体を保全する新たな開発計画に改定されることになりました。農地造成、道路、宅造計画などはそれとして進んでおりますが、小網代の谷そのものは、2005年、国土交通省の国土審議会の審議をへて、近郊緑地保全区域に指定されました。

ただし、保全の決まった当時は、まだ土地収用が済んでいなかったため、水田から、見事な湿地帯へ、さらにそこから乾燥したササ原、そしてササヤブへと荒れ放題になっていく小網代の自然の手入れをすることはできませんでした。2009年になって、神奈川県が保全事業に必要な土地の買収が順調にすすみ、可能な場所から順に、やっと手入れをしていいことになりました。そこで、かつて湿原だったのに乾燥してササヤブになっていたところを湿原に戻す作業から始めたんです。

それから足掛け6年。今、皆さんが歩いてきた湿原は、すべて僕らがササヤブになってしまった場所を湿原に戻したものです。

柳瀬 そもそも三浦半島において、川沿いの湿地という環境は、自然のままにほったらかしにしていたら、本来存在しないんです。

ここは標高80メートルの最上流のてっぺんから、わずか1.3キロで海抜ゼロメートルまで下っている。それだけ急な川だと、人が手を入れなかったら深い深い渓谷になって、一気に海に流れ落ちる。実際、三浦半島の葉山や逗子のあたりの川は、深くて暗い谷を形成し、湿原も平野も作らずに、一気に海に流れこんでいる。

では、なぜ、小網代は真ん中あたりから下流部にかけて広く平らな湿原が谷の低地にあるかというと、それはここでは昔から人間が何百年もかけて、川をせき止め、土砂を溜め、水路を工夫して田んぼをつくり、ゆっくりゆっくり水が流れ、土が堆積し、湿地構造ができるように手入れをしてきたからです。いま手付かずの自然に見える小網代の湿原こそは人間の手入れによってできた地形なんですね。

―― なるほど。私たちは「ありのまま自然」といった、人の手が一切介入しない環境を尊びがちですが、それが必ずしも「豊か」であるとは限らないんですね。人間の手を経ないと、このように森から湿地、干潟と続くグラデーションは生まれなかったと。

柳瀬 人間が関わったことによって、小網代には三浦半島ではレアな湿地環境が生まれたんです。元々、人間が作った田んぼの環境の隅っこにあった自然を、かつての田んぼの面積全部で展開しようというのが小網代の自然維持の発想です。逆にいえば、人間が常に手入れをしないとこのかたちの自然は維持できない。

―― ひとつ気になっていたのが、「流域」の大きさについてです。〈流域の思考〉は人間が体感できる空間の規模に制限されるようにも思えます。ここ小網代ではウォーキングできる距離に流域が収まっていますが、例えば何十キロも続く大きな河川の場合、流域全体を体感的に把握するのは難しいですよね?

 どこかの場所で流域を体感し、理解できれば、構造は一緒、水理学的な必然も一緒だから、大小にかかわらずどこに行っても応用が効きます。流域は、雨の水の集まり、流れる、大地の基本単位。表面流になれば、浸食、運搬、堆積作用は必然、定常流なら、瀬淵のリズムができるし、乾燥すれば池・土手構造の大地のリズムができることも、流域の大小に関係なし。そんな流域構造が雨の降る大地をうめつくしているんですね。

ここは小網代流域、隣に三戸浜の流域があって、さらにその横に別の流域があって、半島主尾根の東側には東京湾に注ぐ流域があって、その横にはまた別の流域があって、広げていくと三浦半島が全部いくつもの流域で区分できて、さらに西に行けば相模川の流域があって、東に行けば鶴見川の流域が、多摩川の流域が、荒川の流域が、利根川の流域が、と大地をどんどん流域で区分できていける。日本を飛び出して、アジアに行っても、アフリカに行っても、アメリカに行っても、みんな同じです。

さらに、ひとつの流域の中には入れ子構造でフラクタル【2】に流域が重なっている。いま、僕たちは小網代の浦の川本流ぞいの中間地点、真ん中広場の横にいます。この流れには、源流からすでに3つの支流が合流している。つまり今いる地点から上手は、3つの支流の流域がつブドウの房のように本流に接続した複合流域だということですね。

この下手では、大きなものだけでさらに4つの支流が合流します。それぞれの小流域は、さらに小さな、沢や窪地といった流域構造の複合ですので、小網代の谷全体が壮大な小流域のフラクタル、複合ということですね。

たとえば、いま私たちのいる足元の地面に、棒切れで溝を作る。これでもう、小網代の流域の中にもう一つフラクタクルな小さな流域ができた。ここに雨が降れば、この溝に向かって雨水が集まり、低い方へと流れて、最後は浦の川に合流する。

こんな具合に世界を「流域の構造の入れ子」として感じることができれば、後は伸縮自在です。雨が降る大地は全て流域で区分できるわけですから。区分できない大地は、水の重力で土地が削られ、浸食・運搬・堆積の構造で地形ができない氷河と大砂漠くらい。それ以外の場所はすべてどこかの川の流域なんです。

柳瀬 ただ、流域については、「すごくわかる人」と「全然わからない人」がいるんです。意外と知識人が全然ダメだったりする。下手に勉強している人はさっぱりわからないことがある。逆に、普通の子供やおばちゃんのほうが理解が速かったりします。これは、空間の印象を身体的に感じられるかどうかにかかっていて、理屈で頭に入れても、体感で感じられないと訳がわからなくなっちゃう。

―― 身体的に三次元の地図が読める人と読めない人が世界にはいる、という話ですね。この違いが生まれる背景には、確かに子供の頃の経験があるのかもしれない。大人になると、どうしても慣れ親しんだ平面的なマップの概念に引きずられて、立体的に土地を見る感覚が働きにくいんですよね。普段から、車や電車での移動が多い生活を送っているとなおさらです。

柳瀬 先日、江東区の人たちを小網代の森を案内したときに、小網代の流域と江東区が属する荒川の流域をなぞらえて、地形をイメージしてもらったんです。江東区は荒川の流域の河口部にあたり、荒川を遡ると秩父の奥まで繋がっている。そこで、秩父から始まる荒川の流域を、小網代でシミュレーションしながら実際に歩いてみる。

入り口は標高1000メートルの秩父山脈で、そこから川沿いに下っていって、海抜1メートルのここは門前仲町、あそこにある州が豊洲あたり、という風に、自分が住んでいる土地の形とリンクさせて考える。つまり小網代のたった1.3キロの浦の川でも荒川でも利根川でもアマゾン川でも基本は同じ。面積や形は違うけど、構造としてはひとつの集水域に水が流れて最後は海に出る。これは自然界の法則だから、どんな土地でも重ね合わせて見ることができます。

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