宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2016.02.27
  • 宇野常寛

アニメーションは日本の戦後をどう描いたか──「理想」と「虚構」の時代の終焉と、ロボットアニメが描いたもの・前編(宇野常寛の対話と講義録)

今朝の「宇野常寛の対話と講義録」では、宇野常寛の講義の内容をお送りします。テーマは戦後日本とアニメーションです。アメリカから輸入された技法をローカライズする過程で生まれた日本独自のサブカルチャーについて、ロボットアニメを題材に読み解きます。


■ 戦後サブカルチャーの変遷

今日の授業のテーマは、「戦後のアニメーションは何を描いてきたか」です。今となってはニュアンスを伝えることが難しいのですが、かつて、若者のサブカルチャーについて語ることは、なによりまず「音楽」について語ることと同義でした。まず欧米圏のジャズやポップスがサブカルチャーの中心にあって、その周辺に国内の音楽や演劇といった周辺のジャンルがあった。しかし今、国内でサブカルチャーといえば、アニメやボーカロイド、ニコニコ動画などの国内のオタク系ネットカルチャーを想像する人が多いと思います。この傾向は、ここ15年から20年くらいの間に生まれたものです。僕が思春期の頃は、もうちょっとオシャレな文化がサブカルチャーの中心でした。一応、アニメや漫画も含まれてはいましたが、メインはやはりあくまで音楽や演劇です。映画は昔からメインカルチャーとサブカルチャーの中間にありましたが、その中でも若者向けのジャンクな映画が、ぎりぎりサブカルチャーに属している、という状況でした。
それが90年代後半から2000年代初頭になると、日本のアニメが「ジャパニメーション」と呼ばれて海外で流行っているらしいということに日本人が気付くわけです。あまり好きな言葉ではありませんが「クールジャパン」という呼称も生まれ、メディアで報道される機会も多くなりました。
さらに、屈託なくアニメや漫画を好きと言える人が増えました。以前はアニメや漫画が好きというだけで、クラスの中で「何だコイツ」という目で見られていたのが、僕の5歳〜10歳くらい下の世代では「普通じゃん」と思われるようになりました。
その結果、いつしかサブカルチャーの中心は、音楽や演劇からアニメや漫画になりました。そういった変化を背景にして、僕のような人間が、若者向けサブカルチャーを語る評論家として世に出てきたという歴史があります。

■ アメリカ発祥の双子──自動車と映像

以上のように、サブカルチャーと言ってもいろいろあるわけですが、今回、なぜアニメにこだわって授業をするのかというと、アニメを語ることによって戦後日本の社会をきちんと語れるのではないか、と考えているからです。
戦後の70年間で、日本が世界への輸出に成功した二大巨頭が「アニメ」と「日本車」です。戦後日本が、「ものづくり」の分野で成功したのが自動車なら、文化的側面での成功を象徴するのがアニメであるとも言えます。
現在においても、自動車が日本の製造業の代表であることに異論を挟む人はいないでしょう。日本にはトヨタという世界的な巨大企業がありますし、ここに入社すれば一生安泰と考えている人も多いでしょう。それに対してアニメは、50代以上の世代からはいまだに「え、アニメ?」みたいな扱いを受けがちですし、海外での日本アニメの人気も、一部のマニア層に支持されているに過ぎず、自動車と比べるとまだまだ成功しているとは言えません。
しかし、この両者は非常によく似た存在だと言えます。まず、どちらもアメリカ文化のローカライズです。最初に車が発明されたのはヨーロッパですが、人々の日常の足として普及したのはアメリカです。つまり、自動車文化とはもともとはアメリカ文化なのです。アメリカは国土が広く、自動車がないと生活できない地域も多いですからね。
それが日本に入ってきたことで別物に進化します。あまりかっこよくはないけれど、燃費がよくて使いやすい、明らかにアメリカの車とは別の思想に基づいて作られた自動車。この「日本車」は、1980年代に世界中を席巻します。
1985年公開の映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』では、主人公のマーティ・マクフライが1955年にタイムスリップして、当時のアメリカ人に「日本製が一番だよ!」と言うシーンがありますが、それを聞いた1955年のアメリカ人は驚いて信じようとしません。当時の日本製品は粗悪品の象徴とされていました。それが、わずか30年で劇的な進化を遂げ、世界中を席巻するようになった。その象徴と言えるのが日本車でした。
アニメについても同様です。アニメーションの大衆化に成功した米国のウォルト・ディズニーに憧れた手塚治虫から、日本のアニメの歴史は始まります。既に漫画家として名を成していた手塚は制作会社を設立し、『鉄腕アトム』を皮切りに、国産アニメーションの製作に着手します。

ここで簡単にアメリカと日本のアニメの違いを説明しましょう。映像は連続するコマによって構成されていますが、基本的にアメリカのアニメは全てのコマが動いている「フル・アニメーション」です。それに対して日本のアニメでは、口や手しか動かなかったり、止め絵(ストップモーション)が非常に多く使われる。この手法を「リミテッド・アニメーション」と呼びます。
当時の日本のアニメスタジオには予算がなく、安上がりにアニメを作るために導入されたのがリミテッド・アニメーションだったのですが、それが日本独自の演出方法やキャラクターデザインのベースとなり、現在の日本独自のアニメの形に発展していったという背景があります。
日本車もアニメーションも、戦後にアメリカの技術を模倣して、日本の実情に合うようにローカライズしたことでオリジナリティを獲得し、気が付いたら世界中で愛されるようになっていた。どちらも非常によく似ていると思いませんか。そもそも自動車とアニメーション、つまり「映像」自体が双子の関係だとも考えられます。どちらも20世紀前半のアメリカで生まれ、どちらも第二次世界大戦後にアメリカン・パワーによってグローバルな文化として普及したという共通点を備えています。

さらにもう少し踏み込んだ議論をすると、自動車は「個人」を作るものだとも考えられます。
みなさん考えてみてください。自動車って本来かなり危険なものなんです。まず重量が1トンぐらいあって、しかも鉄でできている。まともに衝突すると大体の人は死にますが、それをよりにもよって内燃機関で時速何十キロという速度で走らせている。その結果、1年間に何万人もの人が交通事故で亡くなっています。これは異常な事態です。僕らは当たり前のように思っているけれども、自動車がなければこんな恐ろしいことは起こってはいないはずです。だからこそ自動車は免許制なんです。たくさんの訓練を積んで、理性的で責任能力のある個人にしか自動車は運転させない、というのが近代社会における自動車の位置付けなのです。つまり、自動車とは「責任があって理性的な個人」を作る装置だと言えます。
そもそも電車や船といった交通機関による長距離移動は、かつて国や自治体、大企業などのパブリックな存在が担っていたのですが、自動車が発明されることによって、個人がロサンゼルスからラスベガスまでを数時間で移動することが可能になった。つまり、個人の力を増大させるのが自動車なのです。それが20世紀におけるアメリカの発明だったわけです。だからこそアメリカは、あれだけ広大な国土を繋げることができた。「私」を捏造して「公」を作る。それが自動車だったということです。

映像にも同様のことが言えます。日常生活を送るうえで我々はあまり自覚することがありませんが、人間の目は厳密にはピントが合っていませんし、遠近感も狂っています。それでも正しく視界を認識できるのは、以前に見た視覚情報を元に脳が補完しているからです。「ここにモニターがあるに決まっている」とか、「この教室はだいたいこれくらいの奥行きだ」ということを脳が覚えているから、ろくにピントも合っていないような視界に混乱することなく生活を送れているわけです。
その点、映像や写真は遠近感を整理して、人間に理解しやすい形で表現するための技術と言えます。映像は写真をものすごいスピードで動かすことで動画として見せています。だからカメラで撮った映像と肉眼で見えている世界は、実は全然違います。映像は遠近法によって現実の物事を整理することで、人々に体験を共有させやすくしたものなんです。
人間の体験はなかなか他人と共有できませんよね。なぜならニュアンスや文脈といったものが存在するからです。「今日、カッコいいですね」と褒めた時に、本当に褒めているのか嫌味なのかは当人同士にしかわからない。これを万人に共有させることは非常に困難です。
ところが、映像はそういったものを整理してくれます。例えば映画だと、嫌味で言っている場面なら不穏な音楽を流したり、印象の悪い服装をさせたりと、誰にでもわかりやすく提示してくれます。人間は現実の体験を共有することはできなくても、映像の体験は共有できるのです。だからニュースなどには映像が大量に使われているのです。
これは有名な話になりますが、20世紀前半におけるファシズムはラジオの産物だと言われています。広い国土のあちこちに住んでいる日本人やドイツ人の心をひとつにまとめあげるには、電波で国中にニュースを届けるマスメディアがないと難しかった。例えば、みなさんがここに来る途中で、妊婦が産気づいているのを見かけたとしましょう。迷わず救急車を呼びますよね。ところが「ルワンダで3万人が虐殺されました」とか「シリアで5万人の難民が出ました」とか聞いても、どうもピンと来なくありませんか?
人間の想像力には限界があるのです。人間は基本的に自分の半径10メートル程度のことしか共感できません。それを補うのがマスメディアです。とりわけラジオやテレビは、ただスイッチを入れるだけで一方的に情報が送られます。本や新聞と比べて簡単に情報を与えらえるので、人間を受動的にしてしまうことすらあります。それを悪用したのがヒトラーだったわけです。
20世紀前半は、ラジオや映画の発明によって、国民の心をひとつにまとめやすくなった。その結果、国家主義が吹き荒れて世界大戦が起こりました。その反省から20世紀後半は、マスメディアは政治から距離を置くことをルールにしましたが、今度はマスメディアが暴走してポピュリズムが生まれたりと色々なことがうまくいかなくなった、というのが近代の社会だと言えます。
映像とはパブリックを作る装置であり、その結果、僕たちは自分の内面をメディアを通じて作っています。例えば好きな音楽や映画を楽しんだり、ニュース番組を観てショックを受けたりと、メディアを通じて世の中を知っていきます。つまり、僕たちの個性や内面はメディア、特に映像によって作られているということです。

■ 究極の映像表現「アニメーション」

その映像の中でも、僕がとりわけアニメを取り上げるのは、アニメこそが究極の映像だと考えているからです。
例えば映画では、どんなに優れた監督でも、撮るつもりのない要素が作品に入り込むのは避けられません。役者が予想外の演技をしたり、偶然カメラに何かが映り込んだり、望み通りの天候にならなかったりと、不確定要素は多々あります。ところがアニメの表現の中には、監督が意図した要素以外は存在できません。だから、アニメは最も現実から離れた究極の映像です。言い換えれば、最も「パブリックの捏造力」が強いとも言えます。

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