【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第8回
平成仮面ライダーシリーズでおなじみ脚本家・井上敏樹先生。毎週金曜日は、その敏樹先生の新作小説『月神』を配信します! 今回は第8回です。
きい様は村から大分離れた山の中腹で独居していた。
丸太を積み上げたような簡素な作りだったが室内はきれいに整っていた。所々毛羽立ってはいたものの床は畳敷きで天井からはランプが吊るされ土間には竈が設えてある。また壁のひとつが本棚になっていて糸で綴じた古い本が並んでいた。
満寿代はお前の母親じゃないよ。
おれを招き入れて引き戸を閉めるとそう言った。おれがきい様に引き取られた最初の日だ。
あの女は子供を産めない体なんだ、お前、母親を殺そうと思ったんだろ? とんだ人違いだったねぇ、でも、気にする事はないよ、あの女は嘘ばかりついているろくでなしだからさ、いい様さ。
きい様は二人分のお茶を入れると卓袱台に向かって腰を降ろした。座りなよ、とおれを促す。おれは仁王立ちでお茶を飲み、座らないのかい、ときい様が訊ね、おれが頷くと変わった子だよと呟いた。
おれはお前の事ならなんでも知っているんだよ、そう言いながら老婆はお茶を啜りおれを見つめた。毎晩月を見ている事や森の戦車の事もね、海に捨てられた時に助かったのも月を目指したからだろう、違うかい?
おれは黙って頷いた。
お前は月の子だ、おれと同じだ。
きい様はごろりと横になり腕枕でひとしきり鼾をかき、それから突然起き上がって風呂を焚き始めた。
風呂は家の裏手のドラム缶ですでに海水が汲んであった。ドラム缶の下に薪を入れて火を起こし竹筒でふうふうと息を吹く。きい様はおれの頭からお湯をかけ、体に灰を塗ってタワシで洗った。
お前の体には鬼が宿っているようだね、そう言った。きっと月が鬼を育ててくれるだろう、でもね、あまり月ばかり見ていてはいけない、見つめていいのは満月だけだよ、月はね、人の魂を食べるんだ、新月の時、月は腹を空かせている、人の魂を食い段々太って満月になる、満月になればもう月は魂を食ったりしない、だから見つめていいのは満月だけだ。
馬鹿を言うな、とおれは思った。月に魂を食われるなら望むところではないか。
おれときい様の生活が始まった。
きい様は一日のほとんどの時間を寝て過ごした。その間におれがするべき事を数日かけて叩き込んだ。朝、山に登ってバケツ二杯分の湧き水を汲む、食べられる野草を摘む、竈で飯を炊く、乾いた雑巾で畳を拭く、薪を集める、薪を割る、海水を汲んで風呂を焚く、夏は眠るきい様を団扇で扇ぐ、冬は火鉢に炭を入れる。
時々、若い衆が魚や米や野菜を運んで来たが、きい様と顔を合わせるのを避けるようにそそくさを村へ帰って行った。
きい様は魚の塩辛が好物でその作り方をおれに教えた。
魚の種類はなんでもよかった。ただ、ひたすら叩くのだ。頭ごと骨ごと腸ごと包丁でどろどろになるまで叩き続ける。そこにたっぷりの塩と少量の酒と山羊の乳を加えて混ぜ合わせる。あとは山羊の革袋に詰め三カ月ほど地面の中に埋めておけばどぶの臭いのするその食い物が完成する。
きい様は魚ばかり食べていた。血が汚れるという理由で肉食を禁じた。時々、おれはきい様の目を盗み、山羊を殺して食っていた。
糞尿の始末をするのもおれの仕事だった。小屋の裏手に埋められたふた抱えもある陶製の瓶が糞尿で満ちるとバケツで掬って海に捨てたり島の婆たちが耕す畑に撒き散らした。
後年、おれが子供とは見なされなくなって若い衆たちと働くようになると、今度は娼婦長屋の便所の掃除をする事になる。糞尿の海が乾燥して岩のように固まるとおれは体に巻いた命綱を若い衆に持たせ汚水槽の中に飛び込んだ。そして両腕を振り回して糞尿の岩を砕いていった。そこはおれの故郷だった。夥しい糞尿の中には何人ものおれの兄弟が溶けていたに違いない。
きい様には秘密の場所があった。そこは山の頂上付近の開けた場所に石を積み上げた築山だった。いびつな台形をしたその築山の天辺できい様は満月になると瞑想に耽った。きい様はそこを御聖所と呼び古代遺跡だと言っていたが、おれは嘘だと知っていた。それには遺跡のような威厳も風格もなく、積み上げられた石は新しいものが多かった。間違いなくきい様が自分で作ったのだ。
おれが通りかかるときい様は瞑想を中断して手招きをした。皺だらけの骨張った手がおぼろな光に包まれてこっちに来いとおれを呼んだ。おれはその誘いには乗らなかった。ただ一度を除いておれが築山に登った事はない。偽物の御聖所などまっぴらだったし、きい様の弟子になるつもりはなかったからだ。敢えて言えば、おそらくおれの師はおれを産みおれを捨てたおれの母だ。
きい様の方はおれを弟子と見なしていた。いずれきい様の後を継ぐようにとよく言った。後を継いで島を守れと言い聞かせた。
また、きい様はおれに文字を教えようと虚しい努力を繰り返した。
内容は覚えていないが卓袱台の上に広げた本を、きい様の真似をして朗読するように命令した。全く退屈で死にそうだった。おれは本を破りページを食って抵抗した。
何度も食っているうちに味を覚えた。本棚から本を抜き取って時々食った。古い方がうまかった。きっと本にも食い頃があるのだ。おれにとって本は読むものではない。食い物だ。本を読む奴の気が知れない。
島民たちは年に数回、きい様に怪しの物が降りると信じていた。きい様がみんなから馬鹿にされながら怖れられていたのはこの怪しの物のせいだった。
その日が近づくときい様は村に降りて「もうすぐ来るぞ、もうすぐ降りるぞ」と言い回る。そうなると誰もが落ち着きをなくし、祭りの前のような興奮が村を包んだ。その日のために体力をつけるようにと、元締めは山羊を潰して肉を配った。
怪しの物が降りるのは満月の日と決まっていた。
おれは何度かその瞬間を見た事がある。築山で瞑想中のきい様はわけの分からない叫び声を上げると数メートルもぴょんと飛び跳ね、疾走を始めた。怪しの物に憑かれたきい様はなにをするわけでもなかった。ただ、走るのだ。
その走り方が尋常ではなかった。この八十か九十か百歳の老婆は着物の裾をたくし上げ島の誰よりも速く力強く疾走した。川を飛び越え木々を擦り抜けあらゆる障害物をものともせず島のあちこちを縦横無尽にひた走り、きい様が通り過ぎると小さな竜巻が渦を巻いた。島民たちは元締めも若い衆も娼婦も婆もきい様を捕まえようとやっきになった。きい様を止めた者は一年間健康でいられると信じられていたのだ。
ある者は罠を張り、ある者は武器を手に、またある者は徒党を組んできい様を襲った。きい様はその全てを擦り抜けて二時間か三時間か四時間ひたすら走ると、突然立ち止まってばったりと倒れ、まる一日昏々と眠った。意識をなくしたきい様の顔は真っ赤に充血して膨張し、まるで満月のようだった。
おれが知る限りきい様を捕まえた者は誰もいない。
おれは一体どれぐらいの間きい様と一緒に暮らしたのだろう。よく覚えていない。多分、三年か五年か七年ぐらいだ。その間、月の光と日々の労働と山羊肉が筋肉を厚くし、おれは幼児から少年へと成長した。
夏になると若い衆たちは海で遊んだ。島の森と同様命の貧しい海で捕れるものと言えば肉の薄い蟹や船虫ばかりだったが涼をとるのに不都合はなかった。
おれは何度か若い衆に誘われ海に入り、必ず溺れた。若い衆は危うく溺死しそうなおれを引き上げ、時には人工呼吸を施さねばならなかった。
母親の胎内で泳ぎを覚え、昔は大海原からの生還を果たしたおれだったが、成長すると完全なカナヅチになっていた。おれの筋肉は水に浮くには重過ぎたのだ。また、おれは下腹部の奥深くにずしりと居座るなにか鉄の塊のようなものを感じていた。そのせいでいまだにおれは泳げない。
島の探索に飽きると、夜陰に紛れて村の方に降りて行った。
向こうは気づかなかったが何度か満寿代を目撃した。満寿代はランプの明かりを頼りに洗濯をしていた。井戸端で盥に水を汲み、洗濯板で汚れものを洗っていた。
満寿代の顔には鼻がなかった。おれがこん棒で頭を殴った時、内側からの衝撃波で吹き飛んだのだ。
長屋の周辺をうろついていると、部屋の窓を通して時々おれを呼ぶ声が聞こえた。
ある夜、「源太」と誰かが呼んだ。
別の夜には「恭二」と誰かが呼んだ。
また別の夜には「大介」と声をかけた。
みんなおれの名前だった。
明かりを消した部屋の中で暗闇に顔を塗り潰された女たちはおれの性器を見て驚嘆した。そしておれに跨がり、またおれの名前を呼んで打ち震えた。
きい様はおれの秘め事を知らなかった、と思う。だから、おれにいつもよりたらふく飯を食わせ、初めての酒を飲ませて眠らせた後、きい様がとった行動はおれの淫行を責めようとしたわけではない。
眠りに落ちてすぐ、おれは全身の痒みに目を覚ました。酒のせいで蕁麻疹が出来たのだ。酒の飲めない体質がおれを救った。
体中を掻きむしりながら顔を起こすと、股の間にきい様が座っていた。きい様も他の女たちと同じ事をしたいのかと思ったが、様子がおかしいとすぐに気づいた。きい様の手には包丁が握られ、闇自体が僅かに孕む青い光を集めていた。
おれは身を捩って振り降ろされる一撃を危うくかわした。