宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

Serial

  • 2015.09.18
  • 井上敏樹,小説,月神

【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第3回

平成ライダーシリーズでおなじみ脚本家・井上敏樹先生。その敏樹先生の新作小説『月神』をPLANETSチャンネルで週1回、集中連載中! 今回は第3回です。


 

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 おれの朝飯はいつもプロテインに決まっている。たっぷりのオレンジジュースに百グラムほどのプロテインを溶かして数種類のサプリメントと共に一気に胃袋に流し込む。普通なら一回に摂取するプロテインの量は三十から五十グラム程度で十分なのだがおれぐらいの巨躯になるとその倍は欲しい。筋肉の発達には大量の蛋白質が必要なのだ。
 サプリメントはマルチビタミン、ビタミンC、ビタミンE、カフェイン錠、コラーゲン錠、ベータカロテン、テストロジャック、一酸化窒素ブースターが主だったところだ。テストロジャックには男性ホルモンを上昇させる様々な成分が配合され、一酸化窒素ブースターは血流をよくしてパンプアップを促進する。
 パンプアップというのはウエイトトレーニングの際に筋肉が風船のように膨張していく現象だ。負荷を与えられた箇所の毛細血管に激流のように血液が流れ込み筋肉が膨らむ。これは一時的な現象でトレーニング後数時間で元に戻ってしまうのだが練習量を決める指標になる。パンプしないようなトレーニングでは意味がない。筋発達は望めない。
 朝食を終えたおれは寝室に戻る。
 雨戸が閉まっているので部屋は薄暗い。タオルケットを体に巻いてクマルはまだ眠っている。クマルはよく眠る。おれはよく眠る女が嫌いではない。放っておけばいいのだから楽でいい。
 おれは蒲団の上であぐらを掻き床の間に飾った隕石を見つめる。握り拳ほどの物がひとつと喉仏ほどのものがひとつ。両方とも月の石だ。
 大きい方のを頭に乗せておれは座禅を組んで瞑想する。宇宙空間の月から隕石を通して膨大なエネルギーが注ぎ込まれるのをイメージする。おれの体が光り始める。満月のように光り輝く。
 おれは走ってジムに向かう。おれの店は商店街から大分離れた所にポツンと建っているのでご近所付き合いというものがない。だから走るおれとすれ違っても挨拶するものは誰もいない。寧ろ不吉な物と出くわしたように顔を背けて道を開ける。
 昨夜クマルに友達を作れなどと言ったが、友人がいないのはおれも同じだ。ふと、篠原の顔が浮かんだが、奴を友人と言っていいのか微妙なところだ。奴は仕事のエージェントだ。無論、リサイクルショップではなく人殺しの方のパートナーだ。
 おれは殺し屋という言い方が好きではない。人殺しと言う方がいい。殺し屋ではなにを殺すのか分からないし『屋』がつくとタコ焼き屋や豆腐屋のようになにかを売っているような感じがする。それが嫌なのだ。おれは人を殺す。だから人殺しだ。
 三十分ほど走ってジムに到着する。ウォーミングアップには丁度いい時間だ。いい具合に体が温まっている。
 おれは更衣室のロッカーに預けてあるサプリメントを使ってワークアウトドリンクを作る。クレアチンとグルタミンのパウダーをボトルに入れて水に溶かす。これを飲みながらトレーニングをすると疲れないし筋肉にいい。
 エレベーターでジムに降りる。まだ時間が早いせいで利用者は少ない。数人のババアどもが柔軟運動をしたりランニングマシンで醜い贅肉を揺らしているだけだ。
 おれはマシンを使わない。ダンベルやバーベルなどのフリーウエイトで鍛練をする。マシンだと窮屈だし物足りないのだ。
 まず、ベンチプレスから始める。ベンチに横になりバーベルを握ってフックから外す。そのままゆっくりと降ろしていく。バーベルが胸に触れた瞬間一気にトップまで押し上げる。この動作を繰り返す。軽い重量から始めて最終的には三百キロまでもっていく。
 四セット目になると筋肉が目覚め始める。負荷をかけられて大胸筋が喜んでいる。もっといじめてくれと騒いでいる。ざわざわしている。
 セット間のインターバルにおれはおれの体を鏡に映す。全面鏡張りの壁に映ったその肉体は相当なものだ。ボディビルの大会に出てもきっといいところまで行くだろう。だが、まだまだおれの理想にはほど遠い。まだ『荘厳』という言葉が似合う域には達していない。おれは以前篠原と飯を食っている時、店のテレビで観たインドの寺院を思い出す。あれこそがおれの理想だ。その荘厳な存在感の前では人間などちっぽけな虫けらに等しい。
 夜空に向かって真っ直ぐな道のように伸びる台形の本堂、本堂に縋りつくように寄り添う何本もの尖塔、寺院は隅から隅までびっしりと精緻な彫刻で覆われていた。無数の全裸の女神と動物たちが生の悦びを表して絡み合って踊っていた。そして夜空には月があった。
 月に照らされ、光と影の狭間に聳える寺院は永遠のもののようだった。
 おれはああいうものになりたい。あんな肉体を手に入れたい。そうなれば寺院で祈る人々が神と交合して震えるように、おれに抱かれて殺される奴らも喜悦とともに昇天出来るに違いない。もちろんそのためには月の協力が不可欠だ。月の光を浴びて初めておれの肉体は寺院と等しい威厳を帯びる。
 おれはベンチプレスを繰り返す。すでにバーベルの重さは百五十キロに達している。バーベルシャフトが弓なりに撓る。だが、おれにとっては大した重量ではない。おれは百五十キロの鉄の塊を軽々と挙げる。ゆっくりと降ろす。
 筋肉の発達には三つの要素が必要だとよく言われる。運動と休息と栄養だ。だが、おれに言わせればもっと重要なものがふたつある。素質と薬だ。
 当然、おれは滅多にない素質に恵まれている。信じられないかもしれないがこの世に生まれ落ちたその時からおれの体は筋肉に覆われていた。今のように隆々たる鎧のようなものではなかったが、それでも鉄板のような筋肉がピンクの肌の下に張りついていた。だからこそおれは生き残る事が出来た。幼いおれに向けられた母親の殺意を跳ね返す事が出来たのだ。
 薬というのはステロイドの事だ。おれはステロイドユーザーだ。人でありながら人を超えようとするならどうしてもこういうものが必要になる。しかもおれのように老境に入って久しければ尚更だ。ステロイドにも色々あっておれが使っているのは名前は忘れたが馬用のものだ。馬に有効ならば人間にはもっと劇的な効果があるに違いない。ステロイドは経口のものよりは注射の方が安全だし卓効がある。おれは尻に注射を打つ。おれの尻は注射ダコで石のように硬い。
 ベンチプレスも八セット目に入って重量は三百キロに達している。これぐらいになるとバーベルをフックから外すだけでも気が抜けない。下手をすると重量に耐えかねてバーベルを握るグリップが崩れる。そうなると落下する三百キロの重さが凶器となって体を潰す。顔や喉を直撃されたらいくらおれでも命にかかわる。
 普通の奴は万一のためにストッバーを使う。落ちるバーベルを受け止めてくれる安全装置なのだがおれには無用だ。緊張感がなくなるのが嫌なのだ。
 重量がおれに襲いかかる。おれは骨と筋肉で対抗する。骨がぎしぎしと軋み緩衝材のぷちぷちが潰れるように筋細胞が破裂していく。おれは足を踏ん張り肩甲骨を寄せて胸を踏ん張り腕を直角に曲げている。その形を維持している。フォームの崩れは隙となってそこから重量が押し寄せる。おれを潰しに落ちてくる。正しい姿勢を保つ事は生き残る秘訣だ。乳首の位置で二秒ほどバーベルを維持してから全身に力を込めて押し上げる。大きく吸い込んだ息を止め、腰を浮かせえび反りになって押し上げる。頭に血が登って顔が膨張する。耳鳴りがする。眼球の毛細血管が切れて視界がピンクに染まっていく。
 おれの尻は注射ダコでデコボコだが、他にも大小様々な傷跡が体中に残っている。
 古い物は糞尿の匂い漂う生まれ故郷のあの島でつけられたものだ。最近のものも少なくはない。無意味な喧嘩に巻き込まれて受けた刀傷、また、抵抗する依頼者が残した刻印もある。依頼者の中には死を望みながら本能的に迫り来る死に抗って襲いかかって来る者がいるのだ。バーベルを握る手の甲にもその種の傷痕が残っている。これは篠原がつけた傷痕だ。奴が残した噛み跡だ。

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