【対談】與那覇潤×宇野常寛「鬱の時代」の終わりに――個を超えた知性を考える(前編)(PLANETSアーカイブス) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

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  • 2020.03.13
  • 與那覇潤

【対談】與那覇潤×宇野常寛「鬱の時代」の終わりに――個を超えた知性を考える(前編)(PLANETSアーカイブス)

今朝のPLANETSアーカイブスは『知性は死なない――平成の鬱をこえて』を上梓した、歴史学者の與那覇潤さんと宇野常寛の対談の前編をお届けします。「中国化」がもたらす科挙的な能力主義、あるいは平成という「鬱(うつ)の時代」を乗り越えるための知性とは……? 與那覇さんが闘病の中で見出した「新しい知性」のあり方について議論しました。
※この記事は2018年4月24日に配信した記事の再配信です。

書籍情報
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知性は死なない――平成の鬱をこえて』 平成とはなんだったのか!? 崩れていった大学、知識人、リベラル…。次の時代に、再生するためのヒントを探して―いま「知」に関心をもつ人へ、必読の一冊!

『中国化する日本』の世界観を乗り越える

宇野 與那覇さんの新刊『知性は死なない――平成の鬱をこえて』(文藝春秋、4月6日刊)を読ませていただきました。素晴らしい内容で、非常に勉強になりました。いくつも話したい点はありますが、まずは、この本を書くことになったきっかけやコンセプトについてお伺いしたいと思います。

與那覇 もちろん直接的なきっかけは、躁うつ病(双極性障害)にともなう激しいうつ状態の体験ですが、病気とはまったく別に、「いつかは同時代史を書きたい」という気持ちは歴史研究の過程で強く持っていたんです。「自分たちが生きてきた、平成とはどんな時代だったのか?」という問題意識ですね。
元々そう思っていたところに、病気と休職・離職を経験したことで、「大学教員などの知識人が、自身の知見を広く社会に還元することで、人々を啓蒙し、日本をよりよい国にしていく」といった理想が、自分もふくめてことごとく失敗していった時代として、平成を総括しようと考えるようになりました。どこでつまずいたのか、それを分析して、反省すべき点を次の時代につながなくてはいけない。そうすることが、大学はやめても、「知性」に対して自分ができる最後のご奉公だろうと。

宇野 躁うつ病という個人的な体験を掘り下げることが、結果的に平成という「鬱の時代」を論じることに繋がっている。そこに非常に説得力を感じました。 この本には、與那覇さんがうつ状態で仕事を辞めざるをえなくなり、闘病生活を送った記録、病気によって自分自身の世界観そのものが打ち砕かれていった過程が記されています。うつは複合的な症状をもたらしますが、そのひとつは知的能力が大きく低下してしまうことで、この体験を結節点として究極の近代主義としてのネオリベラリズムに対する、そして同時に『中国化する日本』で與那覇さんが提示したネオリベラリズムの進化系というか、その本質の露呈としての「中国化」を乗り越えるための思考が展開されるわけですね。それは具体的には人間の能力は個人の内側にあるのではなく、共同体や個人の関係性の中で発動するものだという能力観の転換として提示されるわけです。
『中国化する日本』では、歴史的にグローバルな「中国化」とローカルな「江戸化」の間で揺れ動いてきた日本が、今、否応なしに「中国化」への対応を迫られていることが指摘されています。この傾向は著者としては決して望ましくはないが、その状況に対応するしかないことを半ば宣言しているという、非常に挑発的な本でした。
『中国化する日本』をいま僕なりに読み返すと、中国的な血族主義はネオリベラリズムに対して有効なセーフティネットになるのだけれど日本的なムラ社会、ご近所コミュニティや昭和の大企業共同体はなすすべもなく解体されてしまったし、一時期日本でも流行っていたグラノヴェッターのいう「弱いつながり」がそれを代替するには、まだまだ環境が整っていない。さあ、どうするんだという挑発で終わっているのだけど、対してこの『知性は死なない』では「中国化」と「江戸化」のどちらでもない「第3の道」が見出されているわけですね。

與那覇 ありがとうございます。同書も色々な誤読をされた本ですが、『知性は死なない』に一番つながる観点で振り返るなら、「中国化」とは人類最初の本格的メリトクラシー(能力主義)、つまり宋以来の伝統である「科挙」の価値観が全面化した社会のことですね。
自分も病気で、一時は日常会話にも不自由するようになって身にしみたけど、公正な社会の条件でもある能力主義は、「能力が低い」人にとっては地獄そのものなわけです。だから、それ「だけ」では社会を維持できないので、必ずバッファー(緩衝材)がいる。
緩和策として伝統中国で採用されたのが、宗族(父系血縁集団)という親族体系で、要は「能力がないやつは、能力のある親戚にタカって暮らせ」という発想ですね。しかしこれが、今日の共産党にいたるまで、政治腐敗の温床になった。宗族ってものすごい人数の血縁集団で、そこからたった一人の秀才に投資して官僚になってもらい、残りの凡人全員がぶらさがって暮らすということだから、いくら不正蓄財しても足りなくなってしまう。
逆に日本の江戸時代は、身分制度が残った点では中国より「遅れて」いたわけですが、能力主義が徹底しない分、いまでいう核家族に近い小規模の家族経営で、親の仕事を見よう見まねで続けていけば、そこそこ食べられる仕組みだった。皮肉にもこれが相対的には、近代化に向いていたんです。数人の家族を食わせるだけでいい分、官吏がそこまで汚職をしなくてすんだというのが、京極純一さんの『日本の政治』での分析でした。
『中国化する日本』を「中国システムを礼賛し、ヨイショする本だ」と誤解する人が多かったので、当時講演を頼まれたりしたときは、この京極説を紹介して中和したりしてたんですよ。必ず聴衆がどっと笑って、「なんだ。やっぱり中国は二流、日本が一流じゃん。安心した」みたいな空気になる。でも、その後ぼくが病気で寝ているあいだに、もうそんなことを言っていられない情勢になったようで…。

宇野 『中国化する日本』が刊行された2011年は、中国はグレート・ファイアウォールに囲まれ、グローバルスタンダードから外れた特殊な国という理解をされていたと思うんです。あれから5年以上経った今、たぶん僕たちが生きている間はずっと世界経済の中心は中国であり続ける可能性が高い。20世紀後半がアメリカを中心とした「西側諸国」と「それ以外」に(安易な見方をすれば)区分できる時代だったとするのなら、これからは「中国」と「それ以外」の時代になるわけです。政治的には欧米型リベラル、経済的には資本主義の組み合わせでやっているアメリカやEU、そして日本は中国という新しいスタンダードから外れた「周辺」になることも十分考えられるわけです。良くも悪くも。そして今でこそ経済誌などを中心にこうした中国観は珍しくないのだけど、與那覇さんは当時からグローバル化とは、実は「中国化」であると指摘していたわけですね。

與那覇 同書を出した頃は、ネットには叩く人も相当いましたね。「こいつは『最新の学問の成果』を詐称して、中国が先進国だなどとトンデモを広めている!」みたいな感じで。たしかに当時、たとえばサムスンの韓国製スマホやタブレットは日本でも広まっていたけど、ファーウェイなんかは無名でしたよね。  でも病気から起き上がってみたら、IT企業で日本は中国に完敗、コンテンツ産業もそのうち抜かれそう、権力者を恐れて官僚が公文書を偽造だなんて「もう中国並みだ」みたいな記事がネットに溢れていて…。もし同書をいま出していたら、「学問、学問って偉そうなくせに、内容が平凡すぎる」と逆から叩かれそうですね(笑)。

宇野 テンセントやアリババも、今のような巨大な存在感を示していませんでしたからね。

與那覇 今回、自分なりの平成史をまとめてみて再認識したのですが、いちおうは歴史研究者をしていたこともあって、やっぱり発想が後ろ向きなんですよね。あの本にしても、「中国はどんどん伸びる!将来は世界を支配するぞ!」みたいなことには、あまり関心がない。
ぼくはむしろ、そうして「中国的になってゆく世界」に合わせなきゃ競争に負けるぞ!、というかけ声の下で、どんどん日本社会が機能不全に陥ってゆく、そのなかで失われてゆくものの方を見ていたんだなと思います。ただし保守派の人たちと違うのは、それを「古きよき日本が外圧で奪われた」とは捉えずに、むしろ中途半端に日本の「悪いところ」が残り続け、それが中国的な競争社会のダークサイドと癒合して、奇っ怪な病理的症状を呈していると考えた。「ブロン効果」【※注】という言葉で指摘したものですね。

※注 ブロン効果:星新一の短編『リオン』に由来する概念。メロンとブドウをかけ合わせ、巨大な実がたくさんなる新品種を作ろうとしたら、ブドウのような小さな実がメロンのように少数できる品種になってしまった。このエピソードから、両者の「良いとこ取り」を狙ったにも関わらず、結果的に「悪いとこ取り」になってしまう現象のことを指す。

宇野 そしてこの本では、「中国化」と「江戸化」の対立の中で、「中国化」を批判的に受容しながら上手く舵取りをしていくべきだった大学が、言葉の最悪の意味で「江戸化」していった。個人の研究では相応の実績を残しながら、組織としては日本的なムラ社会以上の機能を果たしてない今の大学の状況が、克明に描写されていたと思います。

與那覇 認めるのはつらいことですが、まさにそうです。あの頃、宇野さんとはテレビの討論番組とかの「若手論壇」的な場でずいぶんご一緒したけど、だいたい、似たような話になったじゃないですか。日本の戦後社会を支えてきた、典型的には終身雇用企業的な「中間集団」は、これからも要るのか、むしろ崩してしまうべきなのか、みたいな。
「もう崩しちゃえよ」って言ったほうが一貫するのはよくわかっていたけど、そういう場で自分がなかなかそう言えなかったのは、やっぱり所属していた大学というものへの信頼というか忠誠心と、期待があったんです。知性によって選抜された人たちが、議論に基づいて運営してゆく大学というものが、いまの日本で一番、いわば「理想の中間集団」みたいなものに近いところにいるのではないかと。そんなの、お前が当時は准教授をしてたことから来るだけのナルシシズムだろ、と言われたら、それまでかもしれませんが…。
そういう虚妄に賭けて、みじめに失敗したことはよくわかっているのだけど、でもそこで見聞きした実態をぶちまけるだけでは、ただの露悪的なゴシップになってしまう。どうしたら、そうではなく自分の体験を普遍性のある考察につなげられるかと考えたときに、見えてきたのが「能力」の概念、能力主義の意味を根底から組み替える再考察、という一本の筋だったんですね。

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