【インタビュー】森田創 戦後の日本野球は何を生み出し何を失ったのか・後編(PLANETSアーカイブス)
今朝のPLANETSアーカイブスは、草創期のプロ野球を描いたノンフィクション『洲崎球場のポール際』著者・森田創さんのインタビューの後編をお届けします。プロ野球人気の高まりと逆行するように衰退していく六大学野球。その一因となったのは、GHQが推奨したラジオ中継の存在でした。今後の大学野球のあり方や、沢村栄治ら往年の名選手たちの伝説的プレーはどう捉えるべきかなど、草創期の記憶を辿りながら戦後の野球文化について考えます。(聞き手:菊池俊輔、中野慧/構成:中野慧)
※この記事は2016年10月25日に配信された記事の再配信です
※本記事には、前編と中編があります。
■「GHQの意向を汲んだライブコンテンツ」としての戦後プロ野球
――戦前は大学野球が非常に人気があって、後発のプロ野球は大学野球に負けていたということですが、その力関係が並列ないしはプロのほうが上になっていったのはいつぐらいなのでしょうか。
森田 これはいろんな議論があって「長嶋茂雄が昭和33(1958)年に巨人に入るまでは人気も実力もプロ野球より六大学のほうが上だった」という人もいますが、僕は実力自体はプロのほうが上だったと思います。六大学は週末しか試合がなくて年間30試合が最大なんですが、プロは最初の年は別としても昭和12(1937)年から100試合前後やっているわけで、それだけたくさんの試合をしていればどんどんうまくなりますよね。しかもプロ野球選手は野球で生計を立てていくしかないから危機感も全然違う。
戦争直後のゴタゴタの時期には、兵隊に取られて戦死してしまった選手もたくさんいたので一時的にプロのレベルは下がったようですが、昭和30(1955)年ごろには戦前のレベルに戻ったと言われています。
――人気の面ではどうでしょうか。
森田 人気面は、長嶋がプロ入りするぐらいまでは六大学のほうが上だったかもしれません。ただそれはあくまでも東京地区の話で、全国的にはプロ野球のほうが人気だったと思います。
メディア論的な観点から言えば、戦前も真珠湾攻撃の日までテレビが実験放送されていましたが、主要なメディアはやはりラジオ。終戦直後、GHQはそのラジオを「民主主義を広めるためのツール」として活用したんです。当時のGHQにとって、日本人の赤化を防ぐことが至上命題で、そのための特効薬が天皇制とベースボールだったわけですが、ベースボールはアメリカの国技であり、GHQの信じる「民主主義」と相性が良かったんですね。実際にGHQは大量のゴムを日本に持って来て、何十万個という軟式ボールを全国に配り、野球のさらなる普及を図っています。
で、当時のラジオは今のように切れ目なく放送していなかったんですが、GHQが出した指示は「切れ目なく放送せよ」。そのためにプロ野球が一気に中継されるようになったんです。ラジオは夕方の時間であればニュースや芸能、ラジオドラマがあるんですが、午後に放送するものが少なかった。当時のプロ野球は昼間にやっていたので、空白地帯を埋めるのに都合が良かったんです。こうして野球人気は一気に高まっていったんです。
もちろん戦前からラジオでプロ野球中継をやってはいたんですが、一番良いアナウンサーは六大学野球、なかでも早慶戦の実況中継を担当するという位置づけで、プロ野球はあくまでも1〜2年目の駆け出しアナウンサーの練習台だったんです。当時のプロ野球って六大学野球に対抗するためにもっとスピーディーにやろうという方針で、試合展開が早くて平均で80〜90分ぐらいで試合が終わっていた。テレビのような映像のない状態でヴィヴィッドに、かつ的を射た実況をしなければいけないので、アナウンス技術を磨くためには良い素材だったんですね。戦前に駆け出しだったNHKの志村正順さんのような人が、戦後には中堅どころになっていて、彼らの実況をコアにしてプロ野球中継がどんどん人気が高まっていったんです。
■戦後日本社会のなかの六大学野球
――最近、六大学野球は各大学の校風を象徴するようなポスターを制作していて、ネットでも話題になっていました。ただ不思議なのが、果たしてそこまでして人々は六大学野球に対して盛り上がらなければいけないのか? ということだったんです。
森田 まあ、六大学の人たちの側からすれば「六大学野球は人気がなければいけない」という思いがあるんでしょうね。大学のプロモーションとしても六大学野球は効果的なコンテンツだったので。