〈虚構〉が終わった戦場で何を語るべきか 濱野智史×宇野常寛「〈政治〉と〈文学〉」から「〈市場〉と〈ゲーム〉」へ——『母性のディストピア』をめぐって(5)
10月26日に発売された、宇野常寛の待望の新著『母性のディストピア』。その内容を題材にして、長年の盟友である濱野智史氏と共に日本のこれまでとこれからについて語ります。最終回となる今回は、「映像の世紀」(=他人の物語)の終焉による社会学と批評の無効化。そして『母性のディストピア』の先にある「新しい戦争論」について語ります。(構成:斎藤 岬)
※その他の回はこちら。(第1回、第2回、第3回、第4回、第5回)
「他人の物語」から「自分の物語」へ
濱野 前回、宇野さんが「批評に対する思い入れはゼロ」という話をされていましたが、僕もよく「社会学者」という肩書で呼ばれることがあって、自分って社会学者なのか? と思うことは多々あるんです。社会学で博士号を取っていないとか、そういった制度的なところはともかく、宇野さんが言うように社会学というのは「文学化した社会の言葉」で、もう極論すると、本当はいらないんですよ。社会科学としては政治学と経済学と心理学さえあればよくて、社会学の居場所って世界的には完全に絶滅している。
でも、僕の知的ベースの三分の一くらいは宮台真司さんを通して知った見田宗介の弟子筋の人たち、いわゆる「見田山脈」的文脈なんです。橋爪大三郎さんとか、大澤真幸さんとか、小室直樹ゼミの人たちといってもいい、中でも、見田宗介の「これは社会学で扱うテーマではないだろう」というところから入ってしまった。
そもそも僕が社会学に興味を持ったきっかけも、見田さんが真木悠介名義で書いた『時間の比較社会学』という本を中学の「現代国語」の授業で読んだことなんです。いや、だからもうこの時点で、はっきり言って僕的には見田社会学は「文学」カテゴリなんですよね。しかもテーマはニヒリズムの克服とかだし、その後自分で『自我の起原』『気流の鳴る音』とかも読んでいくわけですが、こんなの文学以外でもなにもでもない(笑)。特に真木悠介名義の著作は文学的で、日本ではそれに憧れて社会学に入った人は実際多いと思う。だから、90年代に宮台さんと東さんの読者が被っている問題とかありましたが、それは単にジャンル名が違うだけで、本質的に同じだからなんですよ。
宇野 でも、日本の文学は自己完結していって、政治との接続面を失ってしまった。その分を社会学が補っていたと思うんだよね。
濱野 だから今回、宇野さんが本書で宮崎駿のような巨人たちを扱ったのと同じような知的作業を、見田宗介から宮台真司まで、といった山脈を辿るようなことをやろうと思えばやれる。ただ、僕の中でそれは何の意味もない。なぜなら日本の社会学は死んだし、並走していていたポストモダン理論も死んだから。僕が中高時代に得たものはグローバルレベルではもう全部死んでいて、英語圏の本では全く参照されなくなっている。ただ、アプローチがより実証的になっただけで、結局言っていることは同じだから「こんなのすぐに理解できる」というメリットはあるんですが……。
ただ20世紀は、文学的に異様にねじれていた時代だからこそ生産性が高かったこともまた事実なんですよ。ねじれているから、訳のわからないものが出てくる。だからいまだに『伝説巨神イデオン』を観て「うわっ」となれるわけですよね。
宇野 日本の文学化した社会学イコール、僕にとっての日本の戦後アニメーションのポテンシャルでもあり。そのジャンル自体は終わっているのかもしれないけど、そこの遺伝子を他のものに応用して、西海岸と戦うべきなんだと。
濱野 僕も基本的にはそういう発想というかスタンスです。でもとにかく今の社会学は終わっている。それでもう最近は、岩波文庫で古典をちゃんと読むって生活を始めたんですよ。
宇野 すごいね、子育てしながら岩波文庫を読んで、西海岸に仕事をしにいくって理想の生活じゃん(笑)。
濱野 その中でも特にアリストテレスの『詩学』が面白くて。ギリシア哲学はプラトンとソクラテスはよく読まれていると思うんですが、意外にアリストテレスって読まれていない。僕も油断しててあんまり読んでなかったんですが、『詩学』を読んでみたらすごく面白かった。これは無理やり翻訳すると「詩学」ではなくて「制作(生成)の方法(Technology of Poiesis)」なんですよ。で、ここには「ぐうの音もでないほど感動(ミメーシス)を起こす話を作るにはどうすればいいか」といった話が書いてある。
▲アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論(岩波文庫) そもそも当時のギリシアには「歴史」という概念がまだないんです。歴史も生きた物語のひとつだと思われていた。いいかえれば〈政治〉と〈文学〉は演劇を通じてイコールになっている。なぜそんなことが可能だったかといえば、「絶対にこんなこと繰り返したらあかん」みたいな悲劇的なストーリーを、徹底してパターン化して作り出した。そのハウツー本が『詩学』なんですよ。
アリストテレスの『詩学』には、簡単に言うと「人間は動物だ。動物だから自然(ピュシス)の法則に従う。そして自然は模倣を求める」と前提で書かれている。そこでアリストテレスが出す結論は、とにかく「悲劇以外は絶対作るな」「喜劇は少しでいい」「叙事詩(ドラマ)で、自分語りを本人がやる劇は絶対だめだ」ともいっている。理由は「本人が死んだら終わりだから」。そりゃそうだ、確かにそうなんですよね。
アリストテレスは「悲劇のポイントは畏れと哀れみだ」と言っている。目の前で「あんな立派な人がこんなことになるなんて」とか「もう二度とこんな悲劇は起こしちゃいけない」という劇が上演されると、もはや劇を再現せずとも、口コミだけで皆に教訓が伝わるから民度が向上するんだ、と。だから古代ギリシア社会は安定していた。つまり「政治と文学」がきちんと機能していたからこそ、当時の最強国家だった。
他にもアリストテレスはいろんなことを言っているんですが、例えば「物語の筋は複雑であるほどいい」「ご都合主義な展開はできるだけなくして、筋を複雑に入れ替えると人は惹かれる」ーーといった調子で、ピクサーをはじめ海外でドラマ作りに携わる人は、『詩学』は必ず読むらしい。これ以上に完璧な物語製作のマニュアル本はないと。ハリウッドは今でもアリストテレスに倣って、いかに悲劇的な虚構を物語に入れ込むかに躍起になってる。演劇をやっている人はアリストテレスの本を読むと、「もはややることがない」と思うらしいです。
なぜこの話をしたかと言うと、〈政治〉と〈文学〉は、古代ギリシアでは問題になっていないんですよ。それは演劇という形で統合されていた。そこには宮台さんがよく持ち出す「ミメーシス(感染)」という概念も出てくる。ただ、日本的なミメーシスって確かにおかしいんですよね。アリストテレスを読んでいると、日本的想像力ってなんなんだろう、と。もしアリストテレスがいまの日本の想像力を見たら、あまりにも訳の分からない展開ばっかりで狂喜して分類と分析を始めたとは思うんですけどね……。
宇野 『母性のディストピア』では押井守論を通して、「映像の世紀」が過去のものになりつつあると書いたわけだけど、実際に20世紀的な劇映画で描けないものが圧倒的な勢いで台頭してきているのは間違いない。
インターネット以降、人間の関心の中心は良くも悪くも「他人の物語」から「自分の物語」に移行しつつある。紙の上やモニターの中の「他人の物語」に感情移入するより、「自分の物語」を体験すること、それを発信してシェアすることに関心が移行していっている。この流れはかなり長い間覆らないと思う。
と、いうかこの「映像の世紀」とよばれた20世紀は、映像と放送技術が結託することであまりにも他人の物語(虚構)の支配力が強い時代だった。皆が「他人の物語」に感情移入することによって社会が形成されていたわけだからね。
でも本来、人間は「自分の物語」を生きて、「自分の物語」を語りたがる生き物。「自分の物語」を発信しやすいソーシャルメディアの登場によって、パワーバランスが逆転した。
だから大衆文化はすでに圧倒的に「自分の物語」に移っている。ツーリズムもライフスタイルスポーツもボランティアもそう。そして生活自体のエンターテイメント化が進んでいく。パブリックには広義のイベントに全部回収されるだろうし、プライベートでは衣食住そのもののエンターテイメント化が進んでいく、それを見せびらかすことも含めてね。
なので、20世紀的な「他人の物語」を中心とした劇映画的なエンターテイメントは、相対的に力を失っていくと僕は思っている。むしろ20世紀における文学のような、インテリ層のコミュニケーションツールのような位置づけになっていくんじゃないかと思っているんですよ。
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